公園に来ている。
心に引っかかっていた仕事が一段落し息抜きに来ている。
私は公園が好きだ。木々があり鳥の声が聞こえる。仕事の休憩中かサボりに来ている人々が車の中で休んでいる。子どもの声もする。外の世界とは異なる時間が流れている。
どこにでもあるような陳腐な木も、その肌や葉はどれも同じではない。似通いながらもすべてひとつひとつが他とは違う。
公園にひとりいると自然と古い記憶が蘇ってくる。子供の頃のケンカ、好きだった人の横顔、屈託のない笑顔、ボロボロの泣き顔、それらを辿った先に今の自分を見つける。
苦労してきたと言うつもりはないが、それなりに苦しみはあった。いつまでも逃れられないものもある。それはもう私の身体の一部だ。詫びたい相手が何人もいるがほとんどそれは果たせない。
さしてまだ馴染みのないこの公園で私が親しみを感じるのは篠懸の木だ。日陰をくれる多くの葉は先が尖っていて清潔な涼しさが感じられる。
足元には昨年の秋につけたであろう実がまだ落ちている。駐車場のアスファルトの上で朽ちもせず完全に乾燥して無防備に転がっている。私はそのうちの小さなひとつを手に取って実の刺から痛みを感じようとする。
いつも同じだ。痛みはいつも。
痛みから逃れようとすると思い起こせと声がする。私の過去に住む人々の私の知らない痛み。逃げられないのだよと声がする。
それは痛みそのものではなく、哀しみでもない。これが悔いというものだろうか。
篠懸の実をポケットに入れようとしてやめた。おそらくこの実を落としたであろう木の根に近い土のある場所にそっと置いた。これほどまでに硬くなった実から芽が出ることがあるだろうか。
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