ぼんやりと考えていることを書き記す。
心と時間について考えている。心と過去の関係と言っても良い。別に科学的な知識をもって分析しているのではなく、あくまで私が心について把握するための、とりとめのないたわごとである。
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心は過去によってできている、と思う。記憶のない心は存在するのだろうか。感情的な起伏や揺らぎが生じるのは、過去の記憶があるからであって、真に現在だけを生きているのだとすれば心などありえないのではないだろうか。
個人的な体験としては、ある記憶を意思によって完全に抹消しようとした時期があった。辛かったからである。生きるために、それにまつわる人や場所の記憶、感情の記憶を脳から完全に消し去ろうと努力した。これは病的なものではなく、私の意思によるものである。したがって完全に記憶を抹消できたわけではない。しかし、数年にわたり努力を続けた結果、その人や場所、感情を思い出せなくなった。記憶のぼんやりとした塊の存在はなくならないが、個別の情報を思い出せなくなった。成功である。成功だが喜ばしいわけではない。何とか支障なく生きていけるようになっただけである。
ただ、これに伴って、私の感情はかなりの部分で死んでしまった。全くなくなったわけではないが、滅多なことでは心が動かなくなり、簡単に言えば薄情な人間になった。消去した記憶は親兄弟にまつわるものではなかったが、親兄弟への愛情も明らかに薄くなった。それは当時の私には好都合ではあったが。
一部の記憶だけを消去しようとしてもそううまくいくわけではなく、他の部分にも影響を与える。特に愛着のような感情を呼び起こす記憶は、かなり広範囲で影響を受けた。幼い頃の親兄弟への愛着を想起させる記憶は著しく薄くなった。思い出そうとしても、何層にも重なったベールの向こう側でぼんやり動いているだけである。
しかし、ベールの向こう側に記憶があることは確かである。意思的に記憶を消去したに過ぎないため、標的とした記憶の消去さえ完全ではなく、常に消去作業を続けなければならない。想起すると同時に消去を試みる、ということの連続といったところだろうか。
それでも、私の感情、心は完全に死んだわけではない。特に、花草木や月の輝き、波の音、風の感触などには心が動いた。私はこれらを、「主観においては」ことさらに経験、過去の記憶と切り離し、現在のみを感じ取ろうとした。それが私にとって良いことか悪いことかはわからなかったが、そんなことまで消去してしまえば生きていることにはならないだろうという感覚があった。
月日は経ち、私は唯一無二の大切なものを授かった。死んでいたはずの感情は静かに爆発したが、消し去った記憶が戻ることはなかった。道連れになった哀れな幼少期の記憶などもそのままである。このことで、私の中には二つのあり方が存在するようになった。心のある自分と心のない自分である。
心のない自分には記憶がない。全くないわけではないが、それは幾重にも重なったベールの向こう側の出来事であり、まるで遠い国のお芝居のようなものである。
心のある自分には、鮮明な記憶が重なり、記憶はそれがまるで現在であるかのように引き出せる。それとともに、過去だけでなく未来をよく考えるようになった。いずれ自分の肉体が滅ぶときに失われる自分の心と、その先も続く世界のあり様についてである。それは「心配」というようなものではなく、定まっていてただ受け容れるべきものとして私の心に浮かび上がる。
私の心は半分死んでおり、半分は生き生きとしている。そしていずれ心はすべて死ぬ。その心は何でできているかといえば、過去である。時間が一方にしか流れないからこそ心が存在する。
心のある方の自分は、時の流れを切なく、また愛おしく感じる。しかし、心のない方の自分は、時の流れなど無意味だと言う。心は無秩序の増大に抗う生物としての哀しい宿命を表しているに過ぎないと。心は、死に抗う、生きたいと願うことへの執着の表現であり、私には特に関係のないことだと。
しかし私はこうも思う。そう望んでいるのだと言っても良い。
「あの一瞬は永遠に実在している」と。