先ほどこんな記事を読みました。
インタビューを受けている片山杜秀氏のお話は非常にわかりやすく考えさせる内容でした。一読の価値はあると思います。どんな立場の人でも。読んだ後、ここに帰ってきてくれなくてもいいです。これを紹介するのがこの記事の主目的と言ってもいい。とにかく読むんでみるのをおススメします。
たまたま先日、石を投げ合っているのは敵ではないかも知れない 〜 トランプ政権・米大手メディア・アメリカ国民 〜【訂正あり】 - 45 For Trashという記事をあげていたこともあり、今自分が関心を持っている部分に的確に焦点を当てていると感じました。もちろん、拙文なんかよりもずっと的確。
この記事に余計な駄文を付け加える必要はないとは思うので、このエントリーでは記事の主題に関わる話はほぼ書きません。ちょっとズレたところ、この記事をきっかけに考えたことを少し書くつもりです。
※ 自分用のメモを兼ねたエントリーでまとまりが良くない部分もあります。ご承知の上でお読みください。
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投票にも行かない人が示した関心
冒頭で紹介した記事の一番最後に面白い内容があります。このインタビューは喫茶店で行われているということなのですが、そのやり取りを隣で聴いていた女性が、内容がとても面白かったので掲載されている日経ビジネスを買って読みたいと話す、というくだりです。
その女性は、
いえ、投票にも行かないんですけどね(笑)。たまたま新宿でヴォイス・トレーニングの教室があって、帰る前にコーヒーを飲もうと思ったらお話が聞こえたんです。ありがとうございます。読ませていただきます。それでは。
と言って去っていきます。ご自身で「投票にも行かない」とおっしゃっています。つまり、分類するとすれば、無党派層、いやそうではなくて無関心層と呼ぶべきかも知れません。
そして、記事の締めくくりはこう終わっています。
― こういう話が、今の社会の「普通の人」にも、ちゃんと需要がある、ということじゃないでしょうか。
片山:はい、聴いてくれる方、読んでくださる方がいるのは嬉しいものですね。やはり、ヘンに厭世的になってはいけませんねえ。
ちょっと出来過ぎた話にも感じますが、そんなことよりも、このエピソードをわざわざ記事の最後に含めた意図を考えていると、少しヒントをくれているようにも思えました。*1
日本の国政選挙における棄権者の割合
日本では、選挙権を持っているものの投票には行かない、という人が相当数います。下は、国政選挙における棄権者の割合の推移をグラフにしたものです。
※ 数値は総務省|国政選挙における投票率の推移から拾いました。グラフを反転させただけですけど。
概ね右肩上がりに増加し、最近は5割に近い人が棄権をしています。
この人たちの内心を勝手に推測することはできませんし、単なる想像の域を出ないかも知れませんが、少なくともこの人たちの多くは冒頭紹介の記事で言うところの「敵味方」のどちらかに属しているとは思っていないだろう、とは思います。
片山:プラットフォームを用意しても、「敵か味方」を決めることにしか作用しない。私が日本の右翼研究の専門家だから、特定の片側についてだけ批判しているのかと誤解されても困るので言っておきますが、この現象は右も左も両方で起きていると思いますよ。リベラルも党派姓が強くなる一方です。
この「敵味方」は、私の記事で言うと「石を投げ合っている」当事者ということになりますが、投票にも行かない人々の多くはこの石の投げ合いには参加していないだろう、と思うのです。
無関心は多数派の味方か、それとも
記事の中では、この女性を「普通の人」と呼んでいて、それ自体多分に価値判断を含んだ呼び方だとはいえ、「敵味方」の批判の応酬、「石の投げ合い」には参加していない人が「普通の人」の多くを占めているということは想像できます。
この「普通の人」、投票にも行かない、政治的な発言はしない、議論のプラットフォームに足を踏み入れることもないという人々は、客観的に見れば、結果的にその時点での多数派を黙認、追認しているとも言えます。もう少し厳しく、また簡単に言えば、例えばとある政策によって困っている人がいてもそれについてはスルーしている人々と言えなくもありません(もちろんその中には現実に「困っている人」も含まれているとは思うのですが)。だとすれば、この国の有権者の半分近くを占めるこの人々が、実は国の命運を左右していると言えなくもありません。
ただ、この人々が主観的にどう思っているかについては別です。例えば、様々な政策の是非について語ってもらえば何がしかの意見を持つ人は多いでしょうし、結論はすぐに出なくても真剣に悩み始める人もいるかも知れません。投票に行かないからといって何も考えていないわけでもないし、何も感じないわけでもない、そういう人はたくさんいるのではないかとも思います。ここでは「無関心」と便宜上読んでいますが、真の意味で無関心ではないかも知れない。紹介した記事に登場する女の人のように。
ここに書いたことも含め、何も目新しいことではないのですが、トランプ政権誕生を目にして再度、こういった人々のことを考えてみたいと思います。
石を投げ合っているのはごく一部の人々
投票を棄権する人々の中には、「棄権」という政治的意思表明をしている人もいるでしょう。政治自体に何も期待していない、という人もいるでしょう*2。しかし、あまり深く考えず、ただ面倒だからという人もいるでしょう。
少なくとも、そういう人々が5割近く日本にいる一方で、政治的発言を何がしかの形でする人々*3は、目には強烈に飛び込んでくるものの、実数はほんのごくわずかなのではないかと推測されます(もちろん問題によっては、その問題にさらされる範囲の大多数が意思表明をしているような例外もありますが)。投票に行く人々の中にも無党派層と呼ばれる人々も相当数いて、その人々の中に明確な意見を持たない人々が含まれているとすれば、余計に発言者の割合は低いと思えます。
表現されないものを推測することは難しく、むしろ通常は無視されます。一方で強い言葉は耳目を集めます。アメリカ大統領選挙中、あるいは政権発足後も、あたかもアメリカにはトランプ派・反トランプ派しかいないかのように見えますが、アメリカにおいても大統領選挙の投票率は高くありません(日本と制度が異なるので単純比較はできませんが)。
つまり、「無関心」な人々は忘れ去られていて、忘れ去られることを受忍しているのだとも思うのですが、ただこの膨大な人数の人々を置き去りにして、一部の人々が敵味方にくっきり分かれて石を投げ合うことは、本当はどれだけ意味があることなのだろう、と考えてしまいます。
もちろん、政治は闘争だし、自己の守りたいもののために闘かわなければならないのは当然だとは思います。私自身そう考えています。*4ただ、石を投げ合い、党派性を強めているうちに、完全に置き去りにされてしまうものがあり、それがある日すごい力を持って社会を変化させていくのではないか、などと思ってしまうのです。それを気づかせてくれたのがアメリカ大統領選挙なのではないか、と。
先日、こんな記事を読みました。
記事タイトルも記事の表現も煽りがキツいので、案の定、ブコメ欄は相変わらずの石の投げ合いになっているように見えます。もちろん、それを全否定したいわけではありません。私自身も立場を明確にした上でのブコメは結構書いてきました。
ただ、はてな歴たった1年の私でも、もう見飽きたとも言ってもいいこの光景が、目の前で起こっている現実とあまりにも不均衡に感じられました。トランプ政権の行方は誰にも予想できないかも知れないけれど、「こんな時がきてしまったのか」という危機感を私は感じているのです。
この記事への私のブコメは下記のものです。
「サヨク批判」したいがためだけのトランプ擁護論の愚かしさ | ハーバービジネスオンラインb.hatena.ne.jp大事な問題を放置して殴り合っているうちにトランプ政権が誕生した。問題は好転せず殴り合いだけが激化。党派性、殴り合いが回避不能だとしても、現存する苦しみに焦点を当てる努力の優先度は高いと思う。日本でも。
2017/02/05 22:24
余談:私は左翼・右翼、左派・右派などという言葉を使うことに最近は強い弊害を感じていて、こういう相対的というか科学的でない概念というか、ありていに言えば相手あっての言葉が、物事への理解を妨げている気がしてなりません。特に、どの立場からも単なるレッテル貼りに使われることが増えてきて、会話の共通の前提自体を成立させない役割を担っているのではないかとさえ思えます*5。 もちろん、ある哲学やドグマから演繹的にすべての政治的立場が導き出せるという考えもあるかも知れませんが、仮にそうだとしても、現在においては、各政治的な課題に対する個々の立場を明確にする言葉で語らないと議論そのものが成立しないと感じています。
無関心な人々の静かで大きなパワー
世の中の苦悩の多くは、その人の党派性や政治への関心に関係なく、人々に降りかかってきます。政治に無関心だからといって、当然ながら無感情なわけではない。感情が噴き出すような不満にさらされている場合もあります。
もちろんそれでも多くの人は投票には行かないかも知れません。そして実際にトランプ政権を生んだのはトランプに投票した人々の力です。
しかし少なくとも、投票に行かなかった人々も、勢いを増すトランプをどうしても落選させなければなどとは思わなかったのだと思います。トランプを快く思わない人間からすれば信じがたいことなのかも知れませんが、少なくともそこまでトランプを不快に思っている人たちが多かったわけではない、それが無関心層も含めて、アメリカに溜まった不満や鬱屈の持つ力だったのではないかとも思われるのです。
そういう意味では無関心層がトランプ政権誕生に大きな役割を果たしているとも言えるかも知れません。
一方で、党派性と無関係に苦悩と無縁な人間もいます。このごく一部の人々はどちらかの党派に属して石を投げている場合もありますし、常に勝ち馬に乗っている場合もありますが、社会に存在する苦悩を解決する動機は高くはありません。その人たちも含んで、我々は石を投げ合っているようにも見えます。
無関心な人々との会話
アメリカ国内の切迫感は私には肌ではわかりませんし、そもそもアメリカ国民でもないので、アメリカで生きていたとしたらどうすべきかなんて言えません。ただ、今のアメリカを見せつけられて、我々が今考えるべきことは何なのか、石を投げ合いながらでも良いから、もっと他のところに力を配分して、我々の社会の中にある不満や鬱屈を党派性の眼鏡を通さずにもう一度見直さないといけないのではないか、そうしないと日本にもトランプは登場しうるし、既存の勢力がトランプ化する可能性もあるのではないか、と思ったのです。
そして、それを直視し、収集し、政治的な力になりうるほどに収斂していくためには、実は最大の可能性を秘めている「無関心」な人々の声を聴き、会話することが大切なのではないか、などと思ったわけです。
それは、よくある「啓蒙」とは違います。「きっとこうであるはずだ」というところに誘導することでもありません。この社会でともに生きている他者の声を、自分の先入観を捨ててフラットに聴いてみること、知ろうとすること、否定しないで考えてみること、なのかなと思ったのでした。そうすれば、いつもの固定された顔ぶれで石を投げ合うことよりも、もっと幸せになれる道筋があるのではないか、などと恐ろしく悲観的な情勢の中で希望を見いだせる気が僅かながらするのでした。きっと、どちら側からも「お花畑」と言われるのでしょうけど。
先ほど紹介した記事の最後のエピソードで、記事の内容が「普通の人」にも需要はあるということや、「厭世的になっては」いけない、と書かれていることは、単に記事の価値をアピールするために書かれているのではなく、石を投げ合っている場所以外にいる人々にこそ可能性がある、あるいは目を向けるべきである、という意味が込められているように感じました。もちろん、登場する女性がここまで書いて来た無関心層に含まれるかは別ですし、そもそも私が都合よく深読みしているのかも知れませんが、ヒントをくれているようにも見えます。
喫茶店で熱心に政治についての会話をしていた片山氏や記者と選挙にも行かない女性との間の距離は、実はそう遠くないのではないか、実はすぐ近くにいるのではないか、ということでもあります。
私は敵と味方の区別、石を投げるべき相手が、ひん曲がってしまって敵ではないものを攻撃していることが往々にしてあると思ってきましたが、それが今ほど強まっている時はないのじゃないだろうか、と思うほど、議論が成立せず、また当事者以外に拡がりを見せることのない状態だと感じます。石を置けとは言わないし、自分自身も石を握ったままかも知れないけれど、いつも話しかけているのははっきりとした仲間と敵ばかりではもう何も進まないんじゃないか、もっと取り組むべきものがあるんじゃないかと強く感じ始めています*6。
無関心な人々の中に自分が入っていくこと、語りかけ耳を傾けること、恐ろしく迂遠で、恐ろしく手間がかかり、雲を掴むような話にも思えますが、今までの道も行き止まりのように感じている今、どうにかして違う道を探せないかと考えているうちに、まとまりのないエントリーとなってしまいました。
下の記事と同じことを言っているだけかも知れないです。まあ数日で進歩するはずもないですね。
This is a post from 45 For Trash
*1:本当にこんな会話があったとしたら、この記事内容にぴったりのメッセージを込めることのできる、一種の奇跡のような出来事に思えますが、そういう奇跡って意外と起こる気もします。
*2:もちろん、それらには「政治」側の責任もあるでしょうが、この記事では主題ではないので触れません
*3:それは政治の場、オピニオンプラットフォーム、個人ブログ、ツイッターあるいははてなブックマークコメントのようなものも含めて、外部に意見を表明するあらゆる機会を利用する人々を含めて考えています
*4:だから私も石を投げている当事者に見えるでしょうし、そのことを否定するつもりもありません。まあ、石がどこから飛んでくるにしても、内心では横に石を投げかえすのではなく、上に石を投げつけることにしているつもりなのですが、その石が横の人にあたっちゃう場合もありますものね。
*5:もちろん、かつては多少の意味はあったのだと思います。昔からこの言葉の指す意味が茫漠としてた部分はありますが、それでも何となく社会の中で合意されている範囲というものがあった気がします
*6:もちろん、これまでもそういうことを粘り強くしてきた方々がいないわけではない、ということも知っているのですが、そういうことへの関心が失われ、空中戦だけが激しくなっているように感じられ、しかもトランプ政権を目の前にしている今この時期に、再度きちんと考えたほうが良いという趣旨です。