墓をどうするのかについて考えています。私自身のお墓がどうこうという話ではなく、父が承継し、現在両親がお参りしている墓についてです。自分の中では非常に単純な話だと思っているものの、両親の気持ちなどを考えながらあえてグダグダ書いてみようと思います。個人の範囲の話です。
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山にある墓
このお墓、とある地方都市である私の故郷にあります。私の故郷は平地が少ないため住宅が山肌に沿うように建っているのですが、我が家のお墓があるのは人家もなくなってくる標高の高い場所です。
墓地自体が平坦ではなく、山肌に沿うように200基程度の墓が集まっています。墓地の入口にさえ車では辿りつけず、お墓に行くにはちょっとした山登りを覚悟しなければなりません。
完全自主管理の共同墓地
墓地は市営の共同墓地ということになっていますが、施設と呼べるようなものは特になく、維持管理は市民が勝手に行うことになっています。
相当古くからある墓地ですが、剥き出しの山肌に雑草が生え、石を積んだだけの階段を通じて各お墓にたどり着きます。墓地の多くは雑草防止のためにセメントで塗り固められていますが、今でも土がむき出しのところがあります。共用の水道設備などもまったくありません。
なんとなくの合意の中で保たれてきた
中には無縁仏のように見える墓もそこそこあるのですが定かではありません。雑草が生えて周囲に影響を及ぼすほどになると、誰かが草を刈ってしまうので、そこまで荒れ果てたお墓にはならないのです。
墓地全体を見渡しても平坦な場所はほとんどなく、わずかにある平地にはお金持ちの家の大きなお墓だけが立っています。我が家の墓の敷地の30倍ぐらいはあるお墓で、まるで大名の墓のようですが質屋さんの家です。このお墓にこの墓地唯一の水道があります。子どもの頃、他の墓に参りにきた人がその水道を勝手に使っているのを見て驚いた記憶がありますが、母の話によると、お金持ちの家が誰でも使って良いと言っているのだそうです。
信仰心というよりも習俗
父は長男ではありませんが、長男が墓の引継ぎを拒んだために父が承継者となりました。
我が家には昔から宗教臭がほとんどなく、仏壇や神棚もありませんでした。初詣やお祭りの際のお賽銭、おみくじ、墓参りは誰もがやる習俗として普通にしていましたが、特に父はそういうものに全く関心がありません。祖母が同居する際に神棚を持ってきてからは両親が欠かさずお供えはしていますが。
そういえば、神棚の掃除を命じられた時に、中から「ご神体」っぽいく大事に紙に包まれたものを発見し「神の本体か?」とワクワクしましたが、紙をとってみるとそれは安っぽい造りの親鸞聖人の像でした。神仏混淆というものでしょうが、実のところ祖母は特に何も考えていなかったのではないかとも思います。事実、同居後に祖母が神棚に手を合わせているところを見た記憶がほとんどありません。
このように我が家で強い信仰心っぽいに接したことは一度もないのですが、両親は盆やお彼岸の時期に老体に鞭打って墓参りに行っています。帰省のタイミングと合えば私も行きますが、両親は別に一緒に来てほしそうでもありません。母によると草が生えていたり汚れていたりすると「みっともないから」行くのだそうです。かつては他の親族が掃除をしてくれていることもありましたが、最近は誰も訪れている様子がありません。多くの人が亡くなり、子どもも少なく、自然と疎遠となっていっているのです。
そもそも母はかつて「この墓には入りたくない」と言っていたので思い入れはないでしょう。父はそんな母に連れられて仕方なく墓掃除をしているように見えます。祖母が亡くなってからは少し積極的になった気がしますが。祖父は父が小さいときに亡くなっているのでほとんど覚えていないのだそうです。
両親にとって墓参りは「するのが当たり前」なことであって、そこに何か強い想いがあるわけではないのでしょう。しかし、自分たちでお墓掃除ができなくなれば、両親はそれを心の負担にしてしまいそうです。
墓をどうするか問題?
もうすぐ墓参りを続けるのが困難になる
墓にたどり着くまで一苦労なので、両親二人ならまだしも、どちらか一人だけで行かせるのは心配です。そうなってしまう日は近いように思います。しかし私は遠く離れているので墓参りのタイミングに合わせて帰るのは難しい。
お墓の意味はなんでしょうか。宗教上の意味はあるでしょうが、私にも両親にもそれはあまり関係ありません。あるとすれば、故人を想う場所ということでしょう。宗教的な意味がないとすれば、それは生きている人のためのものだと思います。強いて言えば、故人の遺骨が眠っているからそこを訪れるということでしょうが、両親にとって今あるお墓はそういった場所ではないようです。亡くなった姉が眠っているのは、嫁ぎ先の家のお墓です。そのお墓に距離の問題その他で容易にお参りできないということを母が哀しげに話します。母のためには遺骨を分けてもらえば良かったなと時々思いますが、私がそう思うだけで、先方にも母自身にも受け入れられる話ではなかったでしょう。
両親が毎日ご飯や果物をお供えしているのは家の神棚で、そこには姉が花に囲まれて笑っている写真が飾られています。思えば、私も姉が亡くなってからは帰省すると姉の写真の前にしばらく座っています。
お墓に眠っている祖母は、異常なほど偏屈な人であまり良い思い出がありません。父は一方的に祖母を大事にしていましたが、肉親とは思えないようなよそよそしさがお互いにありました。祖母は父を大事にしているようには思えませんでした。祖母は痴呆になり、私が実家を離れた後に寝たきりとなりましたが、その世話のほとんどは母がやっていました。墓参りをした時に、父が祖母を想っているのかどうかはよくわかりません。
早晩、この両親がお墓参りをするのは難しくなるでしょう。それに、今お墓参りをしている意味もよくわかりません。それでも両親はお墓の放置を許さないでしょう。そういう世界で生きてきた人たちなので仕方がありません。
墓はいらないけれど両親の気持ちは気にかかる
でも、いっそのことお墓なんかなければと思います。
私自身の考えは完全な無神論・無宗教で、あの世とか霊的なものなどの存在をまったく認めていないので、先祖や故人の想いがどこかに宿っているなどと考えることは一切ありません。また、遺骨に対しての特別な感情もなく、遺骨に何か意味を見出すこともありません。自分自身が死んだ後、自分の遺体や遺骨がどのように扱われるかについても関心がありません。
しかし、だからといって他の人間がそれらに意味を見出すことに異論を唱えるつもりもまったくありません。両親が信仰心と言えるようなものを持っているとまではいいませんが、かといって完全に霊的なものや来世、故人の想いが生き続けていることなどについて、徹底的に否定しているともいえません。彼らはそれを突き詰めて考えることはなく、曖昧なままで良いと思っているように感じます。そうであればそれを尊重してあげたいと思います。
このまま曖昧にしておくのが良いのでしょうか。
近々お墓の管理は私の手に委ねられることになるでしょう。他に誰もいませんから。親が生きている限りは、多少無理をしても両親の意向にそって墓の管理をしようと思います。しかし、その後は墓の必要性を感じません。
いなくなった人間の気持ちを考えることは、私にとっては無意味なはずですが、でも両親が生きているうちにお墓の将来について両親に聞いておきたい気持ちもあります。このお墓に入りたくないと言っていた母は遺骨をどうして欲しいのでしょう。父はたぶん、何も考えていない気もしますが。
今度それとなく話してみましょう。
墓じまいとか散骨とか
墓問題で悩む人はそれなりにいそう
最近は墓じまいする人も多いと聞きます。中には遺骨をどうすべきか悩んでいる人もいるそうです。
この番組はたまたま見ていました。これを見て遺骨の扱いに衝撃を受ける人がいるかもしれません。でも、私から見れば紆余曲折を経ながら合理的な取扱いに変化していく過渡期なのではないかと感じました。
そんな感想とは別に、何となく他人事だと思っていたことがそう無関係なことでもない気がしてきます。
少し前までは、兄弟の多い親世代が親族の中心にいて、集まりも頻繁でにぎやかでした。私を含めた子どもの声がやかましく聞こえ、大人たちが楽しげに笑いあったり喧嘩したりしていました。家族の全盛期とでもいうのでしょうか。
しかし、祖父母が亡くなり、叔父や叔母は亡くなったり高齢になりました。いとこは兄弟2人というのがほとんどで、そのうちの3分の1は独身です。私の世代で多くの子どもがいる家庭は少なく、子どものいない家庭もあります。いとこ同士ですから頻繁に会うこともなく、それぞれ関係は薄くなっています。ほんの少し前までいつまでも続くように思っていた賑やかさが、細々としたものになっているのです。
墓じまいの費用や面倒くさいことなど
私がもう故郷に住むことはないでしょう。お墓に縁のある人が故郷にいなくなれば、そこに墓がある意味はなくなります。そうなれば私は確実に墓じまいをするでしょう。
このサイトを見ると、墓じまいにもそれなりの費用がかかるようですが、我が家のお墓にはお寺などは全く関係していないので離檀料などの問題は起きません。市営とはいえ自主管理なので面倒くさいことはほとんどなさそうです。強いていえば、意向を確認しておかなければいけない人とコンタクトをうまく取れるかどうかです。でも、全くお墓に来ない人の意思を気にする必要もないでしょう。このサイトによれば、お寺の中にあるお墓だとクソ面倒くさいことが発生しそうな気がします。そんなお寺ばかりではないでしょうが。
近くに新たな墓を買うことはないと思います。そうなれば、お墓に入っている遺骨をどうするかの問題がありますが、自分が直接知らない人たちの遺骨は、どこか宗教に関係なく受け入れてくれる共同供養塔に納骨するのが良いのかなと思います。不謹慎だと非難されそうですが、正直どうでも良いのです。
本当はお墓参りが好きだった
私、子どもの頃は墓参りが好きでした。山にある墓に行くのはちょっとしたハイキング気分だったのです。親族が集まり、おしゃべりをしながら墓への道を歩くのは楽しいものでした。威張っている叔父さんが何度も大きな声で子どもを叱り飛ばし、子どもたちは走って逃げまわりました。
お盆にはこの地域特有の「盆灯篭」がすべての墓に立てられます。竹と和紙で作られた盆灯篭を運ぶのは子どもたちの役割で、肩にかついで山を登っていくのが何だか誇らしく感じたものです。盆灯篭に貼られる和紙は色とりどりですが、初盆を迎えた家の盆灯篭の和紙は白いものと決まっていました。墓地を見渡すと白い盆灯篭がところどころに見られます。子ども心に、その家の人たちはどんな気持ちで墓参りをするのだろうと胸が苦しくなったりもしました。
盆灯篭の底には、芋に釘を刺した蝋燭立てが置いてあります。昔はどの家でも盆灯篭に火を入れてそのまま帰ったものです。日が落ちる頃になると、墓地一面に鮮やかな光が満ちていきます。山肌を埋めつくす灯りはそれぞれに異なる鼓動で燃えていながらも一つの波を作って輝いていました。そんな時私は立ちすくみ、その場を離れられないような気持ちになったものです。
あの光景が見られるのなら、それだけでも墓があって欲しいと今でも思うほどです。しかし、火事の心配から盆灯篭に火を灯したままお墓から離れるのは禁止になりました。もうあの光景は見られません。
散骨はどうだ?
共同供養塔にと書きましたが、近しい人たちについては散骨して自然に還したいなあとも思います。それは、その人たちの霊的なものを考えてのことではなく、私自身の気持ちの区切りとしてということです。自然に還せば、この世界そのものがお墓みたいなもので、どこでその人を想ってもふさわしいと感じれそうだと思うからです。母のことを想うと姉の遺骨を今すぐ散骨したい気もします。母は賛同しない気がしますが…。
うーん、嘘ですね。正直遺骨なんてどうでも良いです。私にとっては、亡くなった人を想う気持ちは「物」となってしまった遺骨とは無関係です。ただ、何がしかの方法で遺骨を処分する必要があるというのなら、散骨をするのが気分が良さそうというだけですね。ところで、散骨ってしても良いのでしょうか。調べました。ちゃんとした方法でやれば問題にはならなそうです。
でも、私自身の遺骨は散骨すらしてもらう必要はありません。何ひとつ儀式めいたことをしてもらう必要はないし、遺骨をどうしようと関心はありません。残された人の良いようにしてもらえばよいのですが、残された人は故人の意向をおもんばかって行動するでしょうから、何か伝えておいた方が負担がなくて良いのでしょう。
生きているうちが大事
お墓にまつわる話を超個人的な視点で書いてきましたが、私にとってはちょっと面倒くさい感じのする事柄に過ぎません。宗教とか来世とか霊魂とか、そういうものを一切認めていない人間からすれば、お墓という施設とそこにある遺骨の処分の問題に過ぎません。そんな言い方に不愉快な気持ちのする人もいるでしょうか、あくまでこれは私にとってという意味です。他人がどう思うかについて口出しする気持ちはありません。
大切なのは生きているうちのこと、そう思います。私は親不孝者ですので、日々、親の寿命と追いかけっこしているような気持ちになります。その辺のことは過去記事に少し書いています。
なかなかうまくいきません。でも長生きして欲しいと思っています。
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