WIRED.jpに琥珀に閉じ込められた花の写真が掲載されていた。4,500万年前から1,500万年前の間に化石化したものだという。(【注意】一部少し生々しいミイラの画像があります。)
Photo credit: daveynin via Visual Hunt / CC BY
しばらく興味深く写真を見つめていた。樹液に取り囲まれた当時の姿をとどめたこの花は、私には可愛らしく、美しく、そして寂しくも見える。
思えば、このように死後直後の姿をとどめた化石やミイラを目にするとき、知的好奇心の高まりと同時に、私には何か寂しさのようなものが訪れる。
たとえば、永久凍土に閉じ込められた冷凍マンモス、リューバ。。
西シベリアのユリベイ川付近で発見された、生後1年ほどの雌のマンモスである。約1万年前に絶命したとされる。
By Matt Howry from Ardmore, OK, USA (IMG_2718Uploaded by FunkMonk) [CC BY 2.0], via Wikimedia Commons
あるいはアイスマン。
海抜3,210メートルの氷河で見つかった約5300年前の男性のミイラである。
By 120 (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
また、ジュジャイジャコのミイラ。
約500年前のインカ帝国で生贄とされた13歳の少女の遺体が、標高6,739mの山頂で発見された冷凍ミイラだ。
By grooverpedro [CC BY 2.0], via Wikimedia Commons
閉じ込められた時間の長さに違いはあるが、これらはいずれも偶然にも朽ちることを許されず、その姿を現在に伝えている。
人間の多くは、生き物の遺体が今まさに腐敗し朽ちていく姿を目にすると、恐怖心を感じるだろう。それが人間の遺体であれば尚更だ。今生きている自分自身の生と比較し、その行く末を想像し、あのようになりたくないという生への執着を想い起こすからだろうか。
しかし、だからといって、ここに挙げたものたちのように、自分の遺体がいつまでも変わらず保存されることを望む人は多いのだろうか。
世界を物質は巡っているのに、ただ自分だけがいつまでも自分のままである。無論、生まれ変わりや死後の世界を信じる人にとってはそれにこそ意味があるのだろう。古代エジプトのミイラなど変化し続ける世界への抵抗として、人間が自然の一部であることを認めず、その法則を超えた存在でありたいと願う、激しい執着に思える。
それに対して私は、死してなおその姿を変えずに固定されている自分の姿を想像したとき、寂しさを感じる。あるいは、逃げ場のない永久の孤独を想起する。
世界はいつも変化し姿を変える。それこそがこの世界の本質そのものだとすら思える。であれば自分もその環の中でこの世界を巡りたい、そう夢想する。
冷静に言えば、死んでしまえば自分の遺体がどうなろうと知ったことではない。それは残された者の問題だろう。
ただ、自分の遺体が朽ち、自然の一部として様々に形を変えて移り変わっていく、そう考えることは生きている自分にとって、大きな安らぎを与えるように思う。
Photo credit: Andy Hay via Visual Hunt / CC BY
上はポンペイの遺跡の写真。
この、約2000年前のヴェスヴィオ火山の火砕流によって生き埋めになった人々の遺体の形を見た時、永劫に閉じ込められた苦しみに私の胸は痛んだ。
しかし、すぐにこれが遺体そのものではなく、朽ちた遺体の後の空洞に石膏を流しいれたものであると知って、私は随分とほっとしたものである。
この人たちはちゃんと朽ちることが出来たのだ。