アメリカ大統領選挙の報道を見ていると何か言いたくなります。とはいえ、政治評論家でも学者でもない人間が何となく思っていることを適当に書き殴っているだけのエントリーです。ありきたりのことしか書けないと思いますが、結果が出る前に書いておきたかったので。
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- 1.アメリカ大統領選挙報道を見ると暗澹たる気持ちになる。
- 2. オバマ大統領誕生の時も、日本で政権交代が起きた時も、しらけていた。
- 3. 単なるセリフに惑わされるのが選挙。
- 4. 言葉ではなく過去の行動で。
- 5. システムが有権者の姿勢を生み出している面もある。
1.アメリカ大統領選挙報道を見ると暗澹たる気持ちになる。
アメリカ大統領選挙の投票を控えて日本のマスコミも騒がしく報道しています。当初の予想に反するトランプ候補の躍進ぶりの要因を探る報道も色々あって見るべきものもあります。
ただ、アナウンサーが「さあ、いよいよ投票日です!」などとあたかもスポーツの大きな試合が始まるようなテンションで話すと「何が楽しいんだよ?」と私は萎えてしまいます。
アメリカ国民の選択肢はクリントンかトランプしかないという絶望感。誰も自分たちの利益を代弁していはいないのに、候補者に自らを投影し熱狂的に支持する人々。もちろん、このひどい選択に辟易している若者たちの様子。
日本にも多分に影響のあるアメリカの大統領選挙であるということもありますが、私が暗澹たる気持ちになるのは、日本の状況と重ねて見てしまうからなのかも知れません。
2. オバマ大統領誕生の時も、日本で政権交代が起きた時も、しらけていた。
2008年にオバマが大統領になった時、アメリカ国民のみならず日本の多くの人々*1もその「Yes we can」「Change」といった言葉に多大な期待を寄せました。どちらかというと民主主義や人権といった価値に重きを置くような考えの人々からの期待であったろうと思います。初のアフリカ系アメリカ人大統領*2であることと相まって、本当にアメリカは変われるのだと信じた人もいたでしょうし、一部の人々は核兵器廃絶への大きな前進があると期待した人もいたでしょう。
しかし今、「Yes we can」「Change」はどこに行ったのでしょう。
2009年に日本で鳩山内閣が誕生したとき、街は「政権交代」という言葉で溢れかえりました。卑近な例で申し訳ありませんが、政権交代が決まった次の日、会社に行ってみたら普段まったく政治の話などしない職員たちが「政権交代」の話題をあちこちでしていることに私は驚き、そして話題の中に入ることを避けました。ただ、自民党一党支配の継続に辟易していた人々がそれなりの数になっていたのでしょう。
しかしそれも期待外れでした。
何が「期待外れ」なのかについても人それぞれでしょうし、中には「期待外れ」などではないと思う人もいるでしょう。しかし、オバマ大統領誕生や民主党政権誕生への「期待」は「Change」への期待だったのだろうと私は思います。本当は「どう変わるのか」が大切なのでしょうが、現状に大きな不満を持つ人々が、「とにかく変われ」という期待を込めた投票行動をしたのだろうと思います。
しかし大した「変化」は訪れなかった。
私には、オバマ大統領が誕生した時も、日本で政権交代が起こった時も、何らの期待感もありませんでした。
「どうせ何も変わらない。」
3. 単なるセリフに惑わされるのが選挙。
今回のアメリカ大統領選挙においてトランプを支持する人々も、トランプがアメリカに変化をもたらすことに期待をしています。例えば白人労働者層は、トランプの過激な移民排斥的言動や保護主義的言説が、言が自分たちの利益を代弁し、偉大なアメリカ(自分たちこそ豊かになれるアメリカ)を取り戻してくれると期待しているのでしょう。中には、ポリティカル・コレクトレスの下でビクビクと自分たちの本音*3を隠さなければならないと思っていたところに易々と差別的言説を繰り返すトランプに、胸がすく思いをしているのかも知れません。
白人労働者層だけではなく実際には他の多くの層にトランプ支持者は含まれている様子もうかがえます。様々な報道を見ていると、保守層のみならず、中間層や穏健層と呼ばれてきたような人たちの中にすら、「トランプなら変えられる」という期待を寄せている人は少なからずいるように思えます。
それは現状への不満や嫌気が一定程度以上に膨らんでいることの証左のようにも見えます。トランプの過激発言(ヘイトスピーチレベルのものも多い)を必ずしも良いと思っていなくてもそれは小さな問題であり、そんなことに構っていられない、それよりも自分たちは怒っているのだという感じなのかも知れません。
しかし、トランプが当選したとしても彼らの味方にはならないでしょうし、少なくとも彼らが望むような「良い方向」への「変化」も起きないでしょう。
なぜなら、トランプが選挙運動中に語ってきた政策について、当の本人が本当に関心を持ってきたと示すような過去の行動が全くないからです。もっと言えば、トランプが白人であれなんであれ、貧困に苦しむ人々に対し、侮蔑以外の何らかの関心を持っていると示すような過去の言動は一切ないからです。もっと言えば、トランプは政治への関心すら本当はない。彼が選挙運動の中で語る言葉は自分に投票させるための単なる「セリフ」であり、過激発言すら選挙向けの「セリフ」です*4。
もちろん、クリントンが「誰も見捨てはしない」などというのも票が欲しいがための単なる「セリフ」です。長年にわたり既存のエスタブリッシュメントの一部であり続け、これに仕え、格差の拡大に無関心どころかそれを積極的に推し進めてきたとも言えるような過去の行動を見れば、そんな言葉になんの意味もないのは明らかです。
政治は言論を戦わせることによって行われるプロセスですから、政治家の発する言葉に注目することは当然です。しかし、それが「本気」の言葉なのか、それとも票集めのための「セリフ」に過ぎないのか、もっと言えば「嘘」をついているのか、について確かめるには、過去にしてきた行動を見るしかありません。
人間は簡単には変わりません。人間の作る組織も。もちろん変わる可能性はあるでしょうが、変わる際には厳しい過去の総括と訣別が必要でしょう。
しかし例えば、日本で政権交代が起きた時の民主党は、自民党政治への訣別を標榜し、長期の自民党政権への厭気から成立しましたが、党の成立過程や構成する議員たちの顔ぶれを見れば、その出自は主に自民党にありました。私の職場でさえ政権交代の興奮が及んでくるような中で、私がしらけきっていた理由はそこにあります*5。
その後の民主党への落胆で日本は今二大政党制どころか自民党一強となっています。言わば名前を変えただけの自民党に投票していたのですから、現状は当然の結果だと言えなくもない気がします。アメリカ大統領選挙後の予測など私にはできませんが、トランプに期待したアメリカの中間層(かつてのかも知れない)の不満、怒り、怨嗟は、どちらの候補が勝利するにせよ、行き場を失い、忘れ去られるのかも知れません。
それでも怨嗟は残ります。
4. 言葉ではなく過去の行動で。
言葉は重要なものだけれど、言葉というものは軽いものです。どうとでも言える。言うのはタダです。嘘を言っても後で追及されないなら尚更何を言うのもたやすいことです。
日本で選挙期間中に大々的に披露される公約・マニュフェストが易々と破られるのも、実際には反対側だったのに制度ができると自分たちの手柄のように主張する低レベルな嘘が喧伝されるのも、有権者が言葉のみに惑わされ、過去の行動を見ないからでしょう。
労働者の労働環境を本気で改善したければ、少なくとも財界の人間とばかり会食するのではなく、労働現場に何度も足を運ぶでしょうし、保育の問題にまじめに取り組むなら、長年続く待機児童問題に対する取り組みの実績が何がしかあるはずです。租税に関する審議の態度、人権問題に対する日常的な態度等からも、取ってつけた言葉ではなく、過去に何をしてきたかを見れば、本当は何を考えているのかがわかるでしょう。景気対策についてだって、大企業だけでなく中小企業の現実をどこまで把握しているのか、もっと言えばどこから出た金を使って政治活動をしているのか、言葉ではなく客観的にわかる事実を確認すれば、その人や組織が何を言おうと、何を重視し、何を軽視、無視しているのかがわかるはずです。
アメリカに話を戻すと、トランプの過去の行動からは、果てしない自己顕示欲と自己の利益の追求しか感じられず、彼はこれらのために有権者を道具として利用しているとしか思えません。
クリントンの過去の行動からは、エスタブリッシュメントとしての強い特権意識しか感じられません。実際彼女はエスタブリッシュメントそのものであり、また多額の献金を背景にアメリカ財界に仕えてもきたのでしょう。この点では彼女が女性であるかどうかは関係ありません。オバマがアフリカ系であるかどうかが関係ないように。
それでも多くの人々がこれらの候補者の言葉に呼応して支持を表明するのは、乏しい選択肢の中で、候補者の実態とは関係なく、自分の希望を各候補者に投影したいと強く願っているからでしょうか。
「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」とユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は言ったそうですが、まさにその通りなのかも知れません。
5. システムが有権者の姿勢を生み出している面もある。
少し話がずれますが、1990年代、日本では政権交代可能な政治を実現するためには二大政党制になることが必要だ、そのためには小選挙区制にしなければならない、という言説がマスコミ等を通じて垂れ流され続けました。
民主主義において民意の擬制が一定程度は不可避であるとしても、恐ろしい数*6の死票を生む小選挙区制、その結果としての二大政党制は、ある意味形を変えた一党支配と変わらないのではないかと思います。安定した二大政党体制になる過程で必ず二党は同質化していく、どちらが政権を取っても根本的な違いはない、ということでしょう。それこそが小選挙区制を強く推し進めた人々の思惑だったのかも知れません。
民主党と共和党の二大政党制であるアメリカでは、議会のことも考えれば誰が大統領になろうと、体制がひっくり返るような騒ぎにはなりません。また、これまでトランプのような特異なキャラクターが当選を争う候補にならなかったのも、ある意味二大政党制が機能してきたことの表れなのかも知れません*7。
しかし、国民の中に渦巻く不満や怒りは、実際には従来の二大政党制の枠内には収まらないような多様性や切迫感、そして大きなエネルギーになっているのだと思います。共和党内でコントロールし切れない形でトランプが候補となっている状況もこれを示していると思います。 また、民主党の指名候補争いで社会主義者を名乗る*8サンダースが善戦したことも、二大政党制の枠内に収まらない民意が相当数に達していることを示していると言えます。
エネルギーだけは溜まっているけれど、言葉に対してのみ短絡的に反応し真実を見ようとはしない、そんな有権者の姿勢は、選挙制度という、民意を歪め選択肢を極端に狭める洗練されたシステムによって生み出されているように思えます。
このような下ではどんな選択をしたところで、代り映えはしないだろうと思います。何も変わらない。トランプが大統領になろうとアメリカの格差はなくならないし、クリントンが大統領になろうと弱者は切り捨てられ続けるでしょう。
この希望のない暗澹たる現状に抗うためには、政治家や政党を言葉によって評価するのではなく、継続し積み重ねた過去の行動によって評価することを投票行動に結び付けるしかないのだろうな、と思います。
そしてまた、主張の内容にかかわらず、自分たちの声が国政に届かないようなシステムそのものについても声を上げていかなければならないのだと思います。
つまんない結論になりましたが、力尽きましたのでこの辺で。
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