国会議員の育休取得について「問題提起」したとされる自民党の宮崎謙介衆議院議員の不倫疑惑が報じられている。妻(自民党の金子恵美議員衆議院議員)の出産入院中での出来事ということになっていることもあり、ちょっとした騒動になっている。
私はこの不倫疑惑の真偽に関心がない。また、宮崎議員の主張と一般に言う「育休」問題を関連させて論じること自体に反対の立場である。しかし、しばらくはこの話題に関する様々な報道やネット上での意見に触れずに過ごすことは難しそうだ。
そこで、少しここに私の考えを書いておこうと思う。
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国会議員の育児休業取得議論に意味はない
私は、労働者が育児休業を取得する権利を、法的にもまた実質的にも行使できる環境となることを望んでいる。政府統計によれば、平成26年度における育児休業取得率は女性で86.6%であるのに対し、男性は2.30%に過ぎない(平成26年度雇用均等基本調査)。特に男性にとっては権利はあっても行使できない厳然たる実質的障壁がある状態であり、これを取り除くための議論や動きが必要であることは言うまでもない。
宮崎議員の育休取得宣言について、賛否はあったものの、好意的な反応が多くあったのはこのような状況を反映してのことだろう。ネット内で発言力のある人々からも賛意の声があがった。私の観測範囲で今覚えているものに過ぎないが例えば下記のようなものがある。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/komazakihiroki/20151225-00052808/bylines.news.yahoo.co.jp
私が覚えていたものだけなので選定に偏りはあるが、国会議員が率先して育休を取ることで社会全体の育休取得を推進できるという考えであり、多くの賛意があったと思う。
しかし私は次のように書いた。
殴り書きのためまとまりがないが要約すると、国会議員が「育児のために休む」こと自体に反対する必要はないが、それを労働者の育児休業取得の問題と同列に議論することは無意味だと書いた。
不十分であれ育児休業という権利を保障されているにもかかわらず、その権利行使もままならない現状や権利行使に伴う不利益に怯えざるを得ない状況にさらされている労働者と、いつでも自由に休むことが許され出欠管理も公表もされない国会議員(また経営者)を、単に「育児のため」という言葉だけで同じ場所に立っているかのように錯覚することは有害でこそあれ何の益もないと考えたからだ。
その後、この国会議員の「育児のための休み」についての話には様々な意見が出た。ここでこれを整理することはしないが、育児休業の範囲ではない国会議員や経営者の「育児のための休み」と労働者の「育児休業」が十分に切り分けられることが少ないという傾向は変わらないように思う。
自分たちの武器を簡単に手渡すな
そんな中、この問題を提起した当の宮崎議員が妻の出産入院中に不倫をしていたという報道がなされた。
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/5859shukan.bunshun.jp
その詳細に関心はない。しかし、この報道によって育休問題自体よりもスキャンダルの方に関心を奪われる層は一定程度出てくるだろう。一方、このスキャンダルと育休取得推進の問題は切り離して論じるべきだと考える人は一定数いる。そもそも、不倫と育休の問題はまったく関係はない。さらに、誰かが提起した問題意識そのものと、その人自身の素行の問題は別次元の問題であると考えるのは当然である。
例えば今回のスキャンダルに関連して既にこのような記事がリリースされている。
宮崎氏が提起した問題自体は、日本が男女共同参画社会を築いていくためにも国民全体で議論すべきテーマだが、今回のスキャンダルで、その重要な議論までないがしろにされかねない。そこで本誌は、この問題をあえて不倫疑惑とは切り離し、宮崎氏が育休取得を宣言した真意を報道することとした。
しかし、この記事を読んでも、いや読んだからこそ、私はかつての記事では敢えて書かなかったことを今回は書こうと思う。
宮崎議員が育休宣言をし問題提起をしたことの意図や動機はわからない。それは彼の内心にのみ存在するものであり、我々が知ることはできない。それは今回の不倫疑惑によって彼の言葉の真剣さや本来の意図をより強く推測できると考える向きもあるかも知れないが、それとて推測に過ぎない。
しかしながら、彼の「育休」に対する切実さと、「育児休業取得」が困難な状況に置かれた労働者の権利実現への渇望は、根本的に異なるものである。
彼は、労働政策において財界を代弁し、例えば昨年も労働者派遣法の改悪を強行に推し進める政党の議員、推進の主体である。一方で、労働者の「育児休業取得」の問題は、労働者が置かれている労働環境の一部であり、雇用や賃金等と同じ労働者の生活防衛のためのギリギリの権利行使の問題である。彼が「育児のために休みたい」ということと、労働者が「育児休業を取得したい」ということの間には、「育児」や「休」という形式的な言葉以上の共通性は一切ない。
もちろん、「人間」であれば誰でも休みを取って育児に参加する権利はあるだろう。しかし、議論すべきは抽象的な「人間」の問題ではない。「労働者」の権利行使の問題である。
にもかかわらず、多くの労働者が国会議員の「育休」宣言に拍手を送った。そして「育児休業」の問題を、国会議員にも経営者にも労働者にも共通の「育児のために休むこと」の問題であるかのように扱ってしまった。
そして、この問題の「旗手」として躍り出た議員の疑惑によって何がしかのブレーキをかけられようとしている。あまりにも出来過ぎた話にも思えてくるが、何時でも休める国会議員の休みの問題と分別することのないまま「育児休業取得」問題の旗をこの与党議員に渡してしまったことこそが、私には大きな誤りだと思える。
育児休業制度を含め、労働条件を改善する労働者の権利獲得は、幾多の労働者たちの切実な叫び、闘いの結実である。そしてそれは自分たちの生活や幸福を守るための武器である。このことを忘れて簡単に「彼ら」側にその武器を手渡して振り回すことを許した。
くり返すが「育児休業取得」の問題は労働者の権利が実質的に保障されるかどうかの問題である。その実現に「彼ら」の力を借りる必要はない。いや、借りるべきではない。
育児休業取得率向上のための議論が、「労働者」の問題としてきちんと認識されること、そして労働者と無関係な一議員の言説や行動によって左右されないことを願う。
恐らく、このような事を書けば、労使協調が一般化した世の中では経営者と労働者の二項対立という古臭いフレームワークでしか物事を捉えられないかという向きがあるかも知れない。しかし、厳然と経営者と労働者の対立は存在する。だからこそ、労働法制は不十分ながらも労働基本権を中心とした労働者の権利によって経営者を縛っているのである。一方、財界・政権与党は常に労働法制を自分たちに都合よく変えようとしている。日本の各事業所で育児休業制度が労働者の実質的権利として機能するかどうか、その職場環境改善の問題も、突き詰めればこの対立の中にある。
このような考えに賛同する人は少ないかも知れない。私自身、カジュアルに議論することも大切だと考えている。ただ、その権利が「誰のもの」なのかを忘れると深刻な問題、後退すら招きかねないという危惧もある。
余談
この記事の本論とはずれるが、国会議員の出欠は記録されず、あるいは公表されていない。宮崎議員が育休宣言をした際、その意図とは異なり、この問題に焦点を当てる機会となりうると私は思ったが、そういうものはあまり目にしないのが現実だ。
先に引用した日経ビジネスの記事で宮崎議員自身が言っている。
もし、育休を取りたいのであれば静かに欠席届を出せばよかったのかもしれません。
ただ欠席届を出せば何の問題もなく休めるのである。議会からも党の幹部からも、そして国民・有権者からさえも、批判がましいことを言われずに休むことができる。「育休」という言葉は彼には必要ない。
国民は国会議員の出欠を監視することはできない。体調不良であれ、自分の票田を固めるための帰郷であれ、不倫密会であれ、欠席の理由はおろか、欠席自体の記録も確認ができない。この状況を正当化する理由を私は知らない。