45 For Trash

しごうするのか、されるのか。

最高裁が家族の賠償責任否定 | 認知症徘徊による列車事故訴訟に思うこと。(追記あり)

本日(2016.3.1)、いわゆる認知症列車事故訴訟の最高裁判決が出た。最高裁は事故で死亡した認知症患者であった男性の妻の損賠賠償を認めた二審判決を取り消し、JRの訴えを退ける判決を言い渡した。これについて取り急ぎ思うところを書いてみようと思う。 *1

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Photo credit: Marc Brüneke via Visualhunt / CC BY ※写真と記事内容は関係ありません。

事件の概要と一審・二審判決 *2

事件の概要

2007年、重度アルツハイマー型認知症に罹患していた高齢の男性が、家を抜け出して徘徊中、愛知県の東海道本線共和駅にあった無施錠のフェンスを乗り越え線路に侵入、列車にはねられ死亡した。

JR東海は、この事故によって生じた振替輸送等の費用相当の719万7740円の損害賠償請求訴訟を提起した。

一審・二審判決

これに対し、一審の名古屋地裁はこの男性の妻と長男に監督責任義務違反を認めて請求額全額の支払いを命じた。

二審の名古屋高裁は長男の責任を否定し妻のみの責任を認め、賠償額は359万8870円に減額した。

重度の認知症であった男性には責任能力がないことを前提に、一審・二審ともに責任無能力がない人の監督義務者の損害賠償責任について定めた民放714条を適用し、一審では妻・長男の監督責任、二審では妻のみの監督責任を認めたものである。

最高裁判決

JR東海の訴えを退け、JR東海の敗訴が確定した。

監督容易である場合は家族に監督責任があるが、今回のケースはこれに該当せず監督責任を認めないものとした。*3

【2016.3.11 18:17 追記】
最高裁は家族の監督責任について、家族だからといって一律に監督責任を負うわけではなく、同居の有無、日常的関わりの程度、財産管理の程度、介護の状況など総合的に判断して監督責任の有無を判定するとした *4

これまでの世論の反応

一審・二審に対する感想・意見に関し、世論の大勢としては、このような家族の責任を認めることは、認知症患者を抱える家族に対する過度の負担を要求するものだというものが多かったように思う。また、このような責任を認めるとすれば、認知症患者を「監禁」する他なくなるがそれは認知症患者の人権の観点からどうなのかという意見も多かったように思う。

一方で、認知症患者に限らず、その行動が社会に迷惑をかける可能性があるならば、第一義的に家族がその監督責任を負うべきであり、これを認めなければ責任能力のない人が起こし得る損害について、何ら責任のない第三者が負担を負うことになってしまうという異論も一定数あったように思う。

もちろん、損害に関する責任の分担という考え方から、家族に一切責任を負わせることはできないが一定の責任はあり、一方でJR東海側にも損害防止に関する過失を考えるべきだという調整的な意見を持つ人も一定数いた。 *5

今回は、重度認知症患者を抱えた家族が、一定以上の介護の努力をしている中、JR東海といういわば大企業が訴訟を提起しており、いわば個人対大企業という図式であったことが多少なりとも世論の趨勢を決めた部分は否めない。ただ、一方で世論の中に、訴えている側が大企業ではなく個人の場合はどうなのか、という観点から大勢の世論に疑義を投げかけるものもあったと思う。

重度の認知症患者が個人に損害を与えたような場合を想定し、その損害の負担を一方的に被害者に与えて良いかという問いかけをした場合、世論の反応はまた異なったものになったのではないかとも思われる。例えば仮に重度の認知症患者が注意能力が欠けた状態で電車ホームで他人を線路に落としてしまいその他人が死亡したような場合、誰にも損害賠償責任はないとすることが妥当かどうかには大きな疑問が生じるのではないだろうか。

私見

非常に難しい問題であるが、私法上の損害賠償責任の負担の問題は、結局損害の負担をいかに分配することが公平であるかという観点で論じられるべきだと思う。

とすれば、具体的な当事者について個別に判断していくしかない。例えば、損害を与えた重度認知症患者と被害者が、同じようにただ電車を利用するためにホームを利用していただけであった場合、やはり認知症患者側の一定の責任を認める必要があるだろうし、被害者側に何がしかの落ち度があれば、それは過失相殺によって調整すべきだろう。


ただ、今回の事件のように、JR東海と重度認知症患者との関係を考えた場合、異なる要素が一つだけあるように思う。それは、JR東海が危険を伴う鉄道の運行そのものによって利益を得ている企業であるという点である。

「危険を伴う」という言い方には違和感を感じる人もいるかも知れないが、電車という巨大な物体を最高速度100キロ以上で動かすという行為には本来危険が伴う。車の運転も同様であるが、例えば誰かが巨大な鉄の塊を持って通りを時速100キロで通りを行き来しているとしたら危険を感じない人はいないだろう。そういう人がいれば、刑法上の暴行罪で処罰される可能性もある。部屋の中で日本刀を振り回すと暴行罪になるのと同じである。

しかし、人が通る可能性のある道を横切る線路上を100キロで電車が通過しても誰にも文句は言われない。そこに踏切が設置されていなかったとしてもだ。あるいは踏切に人が容易に動かせる遮断棒一本下ろして数メートル先を時速100キロで電車が走っても文句を言う人はいない。ホームドアのない駅のホームを猛スピードで特急列車が走り過ぎる時、白線の内側まで下がったとしても数メートル先を触れれば一瞬で命を失わせるような物体が疾走していたとしても、それをおかしいとは思わない。

刑法上の概念であるが「許された危険の法理」というものがある。車の運転や鉄道の運行、飛行機の飛行、危険物を取扱う向上など、法益侵害の可能性のある行為であっても、その社会的有用性に鑑みてその行為を一律に禁止することはせず、一定の危険が発生しても「許された危険」の範囲内であれば犯罪とはならない、とする考え方である。だからこそ、ホームに人が溢れかえっている中でそれを認識しつつ鉄道がスピードを上げて通過しても暴行罪にはならないわけである。車の運転や鉄道の運行など、通常の活動に比べてリスクが格段に高い行為が社会で許容されているのは、このような考え方があるからであり、そのことによって社会が発展できるという面があるのは確かである。

ただ、この考え方を抽象的にとらえれば、多少の犠牲よりも社会の発展を優先する、もっと言えば経済的利益のために個々人の安全は多少犠牲になっても仕方がないという考え方にもなってしまう。だから、「許された危険の法理」があるからといって、一般的抽象的に社会的有用性>法益侵害結果であれば何でも許されるというものでもない*6

私見では、「許された危険」として許された行為を行っている者にはそれなりの重い注意義務があると考えるべきではないかと思う。もちろん、「許された危険の法理」は、この法理がなければ容易に重い犯罪が成立しうる場面で、行為者の責任を軽減する方に働く。統計を見れば運転をすれば事故は起こり得るし、鉄道を運行すれば一定割合で死亡事故は起きることは容易に予想ができる。それでも尚その行為を行ったとしても、「列車を運行した」「車を運転する」という行為自体を責められることはないのはそれが「許された危険」だからである。しかし、そういう「許された危険」と言えるためにはそれなりの注意義務を履行していることが前提となると思う。自動車の運転者には歩行者には課されない特別な法規上の義務が課されているのであるし、鉄道運行者にも安全確保のための義務が課されているが、その義務は相当程度重いものでないといけないのではないか。


「許された危険の法理」は刑法上の概念ではあるが、民法上の不法行為についても鉄道の運行や車の運転をしたこと自体が責任を問われることはない。つまり、「常識」として「許された危険」的な考え方は我々の社会の中に根ざしている。このような中で、これらの危険から生じる損害の分担についていかに考えるべきであろうか。

鉄道の人身事故は日々発生している。例えばホームドアのないホームからの転落事故で人が無くなった場合に、ホームドアを設置していないことについて鉄道会社の安全確保義務違反が問われることはないだろう。しかし、猛スピードで金属の塊を動かしている鉄道会社が、技術的・費用的にも可能な安全のための措置を行わないことをそのまま是認しても良いものなのだろうか。

今回の事件で、一審・二審ではJR側の過失は認められていない。しかし、認知症患者が容易に侵入できる状態にしておくことは危険な列車を運行している企業としての注意義務を果たしていると言えるのだろうか。もっと言えば、高齢化が進み認知症患者数も増大していくだろうこの社会において、認知症患者が簡単に線路に侵入してしまい事故が起きた場合、認知症患者側の責任だけが問われ、鉄道運行者側の責任は不問とされて良いのだろうか

これは本当は認知症患者だけの問題ではなく、乳幼児や精神疾患のある人等についても同じである。彼らが社会に一定数含まれており、超高齢社会でこの比率が増大していく社会において、これらの人々の安全について従前よりも配慮すべき義務が、一定の危険を許された事業者には課されてしかるべきではないか、とも思える。


もう随分前の話であるが、首都圏のJRの駅のホームから駅員の数が大幅に減った時期があった。首都圏の朝の駅の混雑はご承知の通りであるが、これで本当に大丈夫だろうかと非常に不安に感じたのを記憶している。代替手段なく安全管理のレベルを下げることは安易に許されるべきではないと思ったが、当時何か代替手段が採られた形跡はなかった。これとの因果関係を断定する材料はないが、日々鉄道での人身事故は発生している。これは安全対策不足ではないのか。

もちろん、鉄道は重要なインフラでありその恩恵は私を含め多くの人々が享受している。安全管理を厳格にすればするほどコストは上がり、その費用は利用者に転嫁されるかもしれない。しかしながら、線路で人が死ぬという事実に慣れ切ってしまった我々は、そのような経済的な観点だけではなく、もう一度立ち止って、何を許してよい危険と考えるのかを改めて検討すべきようにも思える。


鉄道事業に従事する人々が、安全運行のための努力をしていることは承知しているが、企業姿勢としての安全管理が本当に現在の社会の在り方に比して妥当なレベルにあるのかは問われなければならないと思う。それを問わなければ、ちっぽけな個人が、社会的有用性の優先の下に犠牲にされ続ける社会は変化していかないように思う。

今回の最高裁判決は、今回の件に限っては、妥当な結果をもたらしたと思う。しかしながら、その論理からすれば家族の責任が完全に否定されたわけではない *7。(2016.3.1 18:30加筆 最高裁の判断からすれば認知症患者に強く寄り添えば寄り添う程責任が認められると判断される余地さえある。)これは他人事ではない。現在認知症患者を抱える家族、認知症患者自身、あるいはそのような状況にないすべての人にとっても無関係でいられる問題ではないと思う。より深い議論がなされるべきだと思う。

2016.3.1 20:00追記

読み返してみるとまとまりが悪いので、言いたかったことを追記して列挙しておく。

責任能力のない人が誰かに損害を与えた場合

  1. 被害者が個人である場合には、一定の監督責任を認めて損害の負担の公平を図るしかないだろう(過失相殺も含め)。
  2. もともと危険を含んだ事業活動を行う企業との関係では、家族等の監督責任を認める要件を厳しくするとともに、企業側に危険を防止すべき義務をより高く求める必要があり、その義務を十分に果たしていない限り、監督責任を認められる家族等に責任を認めるべきではない。

と考えている。

これは、社会的有用性を過度に優先することによって一部の犠牲を強いてきた姿勢を再考し、「許された危険」をある程度狭めていく必要性があると認めることによって、損害に対する責任の分配についてより個々人の尊厳を優先する結論に舵を切るべきではないか、という考えに基づいている。


尚、後日以下の記事を書いた。

www.shigo45.com


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*1:最高裁判決の詳細がまだ把握できていないので後日加筆修正するか、新たにエントリーを起こす予定である。

*2:ここではごく簡単にのみ概観する。

*3:2016.3.1.17:00時点で速報内容しか知りえないが、詳細判明したら加筆するつもり。

*4:この考え方に立てば患者との関係が深ければ深いほど監督責任を負う可能性が高くなってしまうとも思われる。認知症高齢者の押し付け合いを促進しかねないという懸念すらあるが、今回のエントリーでは取り上げない。

*5:尚、二審の名古屋高裁が賠償額を減額したのはJR側の過失を認めて過失相殺したというわけではない。JR東海に安全確保義務の違反はなかったとしつつ賠償額を減額している点は理屈としては曖昧である。

*6:許された危険の法理を背景に例えば結果回避義務違反の存否を判断する際の詳細等については字数の関係と能力の限界からここでは挙げない

*7:これについても判決詳細を見て修正加筆の可能性がある。

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