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しごうするのか、されるのか。

【連載】「効果的利他主義」批判 ‐ その4 ‐ 理性至上主義の矛盾・限界と共感の肉体的基礎

前回の記事では、効果的利他主義者が自らの生む不幸に無頓着なのではないか、それどころか現状の社会システムを無批判で徹底的に肯定しているだけではないのか、というようなことを書きました。

そして、その倫理的な基礎となる「理性」が、一見して誰かを苦しめるような結果をいとも簡単に容認したり、積極的に肯定できるのは何故かと考えていったとき、私はその「理性」の源泉の不確かさに思い至ったのでした。

今日は、効果的利他主義が最重要の基礎とし、我々の生き方を決める上で決定的な役割を果たすとしている「理性」に焦点を当て、果たして彼らの言う「理性」とは何か、それは確実なものなのか等について考えていきたいと思います。

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Photo credit: CiaoHo via Visual Hunt / CC BY

尚、例によって、今回もピーター・シンガーの『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』の記述を挙げ、それにコメントをしていく形で書いていきます。


あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ

効果的利他主義では生命や苦しみはすべて数値化される

効果的利他主義は、利他的行為の効果を測定し、より効果的な利他行為を行おうという考え方です。もちろん、その効果測定には、とある慈善団体が行う活動の資金効率や慈善活動間の比較等もあり、これらがリソースの有効活用について一定の効果を上げていることは認めても良いだろうと思います。

ただし、その「効果」の考え方について、疑問を感じる部分があります。特に、効果的利他主義が標榜する「たくさんのいいこと」という場合の「たくさん」の考え方についてです。シンガーの効果的利他主義においては、「生命」や「苦しみ」は世界を俯瞰する目から見た、無個性な数値として扱われているのですが、これをどう考えるかは、効果的利他主義を支える基礎である「理性」がどのようなものであるのか把握する必要があります。これを見ていきましょう。

生命は単純に数値化して比較できるという考え

シンガーは、倫理の源には理性があるとした功利主義者のヘンリー・シジウィックの言葉を借りて、次のように言います。

宇宙の視点から見れば(もしそれが可能なら)、ある人間の利益は、そこにより多くの利益がもたらされると信じるだけの特別な根拠がある場合を除いて、ほかのどの人の利益とも重要性においてなんら変わらない。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第7章 愛がすべて?、location1333

これはシンガー自身の言葉ではありませんが、様々な部分での主張からして、これはシンガー自身の考えでもあることは明らかでしょう。そして、ここで言う「宇宙の視点」とは、人間の感情や情熱などの情緒的な働きではなく(あるいはこれらを排除した)、シンガーの考える「理性」の判断と言っても良いだろうと思います。

また、この言葉は、シンガーが賞賛するビル&メリンダ・ゲイツ財団に掲げられた「全ての生命は平等の価値を持つ」という言葉ともほぼ同じ意味を持つと考えていいでしょう。

この考え方を基礎に、シンガーは次に挙げるような例で、より「たくさんのいいこと」とは何かについて結論を出しています。

一〇〇万ドルで、はしかを予防して大勢の子供の命を救うか、一組の結合双生児を分離するか、一人の極小未熟児を救うか、どれがいちばんいいのかを判断するのは、それほど難しくないはずです。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第10章 国内、それとも海外?、location1754

シンガーにとっては、全ての人間の生命は1人=1個として数値的に比較すべき対象なので、このような結論に至ることに何ら悩みはないでしょう。

また、効果的利他主義からすれば、次のような行為は間違った行為とされます。

  • 妻が乳がんで亡くなったので、乳がん研究に寄付している。
  • 昔から芸術家になりたかったが、その機会に恵まれなかった。だから、有望な芸術家に才能を育むチャンスを与えるような組織に寄付している。
  • 自然を写真に収めるのが私の喜びだ。そこで、美しい自然公園の保護活動に寄付している。
  • アメリカ人なので、なによりもまずアメリカの恵まれない人たちに寄付をする。
  • 犬好きなので、地元の動物シェルターに寄付している。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第8章 理性の力、location1376

なぜなら、世界を「宇宙の視点」で見渡し、人の生命を数値として見た場合、同じコストでより多くの生命の危機や苦しみを救うことができるのに、コスト効率の悪いものに資金を拠出することは間違っているからです。

自分の近しい者、好きなものへの単純な共感ではなく、世界中の生命が同価値であるという理性的判断から出発する効果的利他主義からすれば、この結論も簡単に導き出せることです。

また、少し難しい例ですが、自分の腎臓を腎臓移植に提供するという少し特異な例についても触れられているのでこれも見てみましょう。

アレキサンダーは集めた情報から、腎臓提供は自分にもできることだと思い始めました。友人と家族にそう考えていることを話すと、とんでもない自己犠牲だと言われました。ですが、アレキサンダーは「それなりに利他的な人間が、人助けのためにできるたくさんのことのひとつ」だと言って譲りませんでした。彼は二一歳の時に腎臓を提供し、六人の提供者の輪を始めました。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第6章 身体の一部を提供する、location1145

このアレキサンダー・バーガーという人は、腎臓提供のリスクを冷静に判断し、自分の2つある腎臓のうち1つを見ず知らずの人の腎臓移植のために提供した人ですが、続けて同じように腎臓提供をしたクリス・クロイという人の言葉を紹介しています。

生体腎移植の効果は、もっておよそ二五年です。腎臓提供の輪を始めた功績が僕にあるとしても、その効果はたかだか一〇〇年程度(二五年の四人分)で、人ひとりの人生の一・五倍分ぐらいしかないんです。ギブウェルによると、一人の命を救うのにかかるコストは二五○○ドルです。ということは、マラリア対策基金に五○○○ドル寄付する方が、四人に腎臓移植を行うよりもいいことになります。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第6章 身体の一部を提供する、location1164

腎臓提供をした当の本人であるクリスは、自分の行った行為の価値を金銭に換算し、人を助けるために出来ることは腎臓提供だけではない、ということを表現しているのですが、これを受けてシンガーはクリスのような人たちを賞賛しつつも、こう言います。

私は毎年五○○○ドルをはるかに超える寄付を行っていますが、腎臓はまだ両方持っています。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第6章 身体の一部を提供する、location1167

この言葉も、読者に対して、腎臓移植をしなくても倫理的な行いとして選択できる「よいこと」はある、という文脈で語られてはいます。

ただ、このように「よいこと」を金銭的価値に換算できるという考え方は、やはり、すべての生命の価値は同じであり、どれだけ「たくさんのいいこと」が出来るかどうかの判断は、生命を単純に数値化してその数を比較すれば良い、という考えが背景にあることは確かです*1

健康でない人生の価値

このような態度は、生命の数を比較する場面だけで貫かれているわけではありません。生命それぞれの価値比較においても、数値的評価がされています。

例えば、イギリス国立医療技術評価機構(NICE)が治療のコスト効率を計るときに使う「質調整生存率」(QALY)や、世界保健機構(WHO)が開発した「障害調整生存率」(DALY)に触れて次のように述べています。

この手法を使えば、治療と寿命の費用対効果を比べることが可能になります。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第12章 比較が難しいもの、location2046


盲目の割引率は、○・二とされました。言い換えると、盲目の状態で過ごす一年間は、健康な生活の○・八年に当たるわけです。ですから盲目の人が五年間視力を取り戻したら、それは健康な生活を一年間延ばしたのと同じことになるわけです。この割引率と、先ほどの仮定の数字を使うと、一○万ドルの資金なら、盲目を治療しない場合には一○○○×○・二、つまり二○○DALYが失われます。一方、飢餓によって失われるのは年間五○○DALYです。二つを比べると、飢餓の救済に軍配が上がります。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第12章 比較が難しいもの、location2053

QALYやDALYは、ある一人の人間の治療選択にあたっては一つの目安になる可能性はあるのかも知れませんし、場合によって国家内での医療費配分の指標としての研究は必要かも知れません(といっても、私個人としては強い異論を持っていますが)。

しかし、シンガーはこれらの指標を、ある生命と他の生命の価値を比較する指標として活用できると考えています。例えば、先の例で言えば、盲目である人の生命の価値は、健常な人の生命の価値を一としたとき、○・八しかないものとして計算されています。

効果的利他主義者であるシンガーにとっては、生命の価値を「一人=一価値」と換算して計算するだけでなく、生命それぞれの価値も数値化して比較できなければなりません。ある人の生命の価値は一・○であり、ある人の生命の価値は○・五である、といった具合です。

しかし、ここに来てわかりやすい問題が表れてきたと感じます。

シンガーの考えでは、障害を抱えた人生よりも障害のない人生の方が価値が高く、不健康なな人生よりも健康な人生の方が価値が高い、ということが当たり前の前提となっています。このことは、それが一個人の中で比較されているだけなら首肯できなくもないかも知れません(私はそうは思いませんが)。

しかし、健康に生きている人と、病気を抱えて生きる人の生命・人生を比較した場合はどうでしょう。シンガーは当たり前のように、病気の人の生命・人生は健康な人に比べて価値が低いとしています。それはシンガーの考える情緒を排した「理性」の為せる業ですが、これは本当に倫理的に正しい結論なのでしょうか。

シンガーの理性は、この場面では人の生命の価値を「健康」「健常」という指標で数値化し、そのことに迷いはないようです。難病で高度医療を受けなければ生きることのできない人々の生命は、健康な人々に比べて価値は低く、しかも生きるためにたくさんのリソースを消費してしまうので、倫理的に非効果的であることになります。

この態度は、知的障害等についても同じです。

ここでは深刻な知的障害のある人に絞ります。もし、ある動物が、ある人間よりも高い知能を持ち、その人間は今以上に知的水準が上がらないとすると、高い認知能力が高い価値を持つとする主張では、その人間を動物より大切にするのは間違いだということになりますし、人間と同じ認知能力を持つ動物の利益を軽んじるのは間違いだということになります。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第13章 動物を救い、自然を守る、location2196

ここでの表現は「高い認知能力が高い価値を持つとする主張では」「ということになります」として、シンガー自身の立場ではないようにも見えますが、著作を読めばこれはシンガー自身の立場であることがわかります(シンガーは類を超えて苦痛への感受性を比較して救うべき優劣を決めるべき、という立場です。)。知性レベルの優劣を数値化し、それを生命の優劣を計る基準としています。

これは、明らかな優生思想です。病気や障害のない人生をそれらを抱えた人生よりも高いと断じるのは、単なるシンガーの恣意です。

障害や病気だけではなく、人はそれぞれが違う人生を歩みます。ある人から見れば優っているように見える部分もある人から見れば劣っていることもあるでしょう。盲目である人生が、目の見える人生よりも価値がないと断じる理由は何か、それはシンガーの中にある優生的価値観でしかありません。何故目が見えるかどうかで、その人の価値や人生の価値が左右されるというのでしょう。誰かの人生を不完全な人生と認定し低い価値認定をするなら、それは誰かを不完全な人間であると言うのと変わりません。そのようなことを言う権利が誰にあるというのでしょう。

不可能で拠り所のない「宇宙の視点」

ここまで見てきたように、効果的利他主義者が人の生命を単純な頭数として数値化したり、人の生命を点数化して価値の優劣を決める基準を設定する権利を有していると考えるのはいったいなぜなのでしょうか。

これについて私は、彼らが「理性」によって正しい判断ができると「信じて」いるからだと考えています。私はこれは理性に対する妄信だと思います。

「全ての生命は平等の価値を持つ」には根拠が必要である

これを考えるにあたって、もう一度最初に引用したヘンリー・シジウィックの言葉に戻りましょう。

宇宙の視点から見れば(もしそれが可能なら)、ある人間の利益は、そこにより多くの利益がもたらされると信じるだけの特別な根拠がある場合を除いて、ほかのどの人の利益とも重要性においてなんら変わらない。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第7章 愛がすべて?、location1333

シンガーは、この命題、言い換えれば「全ての生命は平等の価値を持つ」という命題が正しいのかどうかについては、何ら説明をしていません。これが正しいのは当たり前だという顔で、これを根拠に様々な困難な比較・選択をやすやすと行っています。つまり、この命題が正しいかどうかは証明不要な自明のこととして扱われているわけです。

しかし、この命題は「価値」という言葉を見るまでもなく、価値判断を含んでいます。シンガーはこの価値判断が「理性」に基づけば説明する必要がないほど当然正しいと考えているのでしょう。しかし、本当にそのように言いきれるのでしょうか。

「理性」だけでは同類の同価値性は根拠づけられない

人間が、石ころと人間の価値に差を感じたり、他の人間と自分の価値に差を感じない(あるいは、差を感じるとしても石ころとの差ほどではない)のはなぜでしょうか。

確かに、石ころと人間は違うものだと認識することや、他の人間と自分が同類であること*2を認識することは、理性の働きなのでしょう。

しかし、石ころよりも人間に価値を見出したり、他の人間の価値やそれらの利益が自分や自分の利益と等価であると認めるのは、理性の働きを超えています。

理性的に異なるものと区別をしたとしても、石ころの方が人間よりも価値があると考えることも「理性的には」可能です。理性的に他の人間と自分が同類だと認めたとしても、自分の方が他の人間よりも価値があると考えることも「理性的には」可能でしょう。「類が同じであること=同価値」であるという結論は、理性によっては自動的に与えられてはいないからです。

シンガーは、同じ人間であることがわかりさえすれば、ある人間とほかの人間との価値が等価であることは自明だとしますが、「同じカテゴリーに属するもの」であることと「価値が同じ」ということの間にはまだ距離があるのです。

例えば「人類」という括りで考えてみるとして、同じ人類に同じ価値を見出す感覚の基礎には、理性以前の何かがあります。ある対象の自分自身との共通性を理性的に認識したとき、あるいは、その対象が自分と同じように世界を認識し感覚していることを理解したとき、我々の中に生じるものはなんでしょうか。

また、我々が群れ(社会)を作る時、類をしての共通性を基盤とするのはなぜでしょう。我々が、自分たちから遠い類ではなく、同類である人類に抱く安心感はどこから来るのでしょうか。

人類は生物学的知見を得る前から、生物を科学的にカテゴライズできるようになる前から、人類同士で社会を作ってきました。しかしこれは宇宙の視点からみた人間の等価性を認めることによってではありません。

シンガーの「理性」は世界に根拠を持たない万能の呪文

我々が対象を同類として認識し、同じように認識し同じように感覚するということを理解したとき、いや厳密な理性的認識以前に、我々は対象に対する情緒的な安心感や共感を抱きます*3。それは、理性の働き以前にある「類」としての本能(あるいは本能に近いもの)とも呼ぶべきものです。それは、サルがサル同士で、オオカミがオオカミ同士で、あるいはイワシがイワシ同士で群れを作ることと何ら変わりません。

それが基礎にあるからこそ、相手を同じ類として扱い、群れの一員と認識し、つまり同じ仲間として互いの等価性を認め合えるのだと私は考えます。こういった本能の働き、もう少し進んで精神の情緒的な働きがあるからこそ、誰かを自分と等価であると認めることができるのであって、「理性」のみによってこれを行うことは不可能です。

翻って見るに、シンガーの「理性」はまるで神の理性です。世界の外にあって世界を眺めることのできる超越者の視点です。しかし、そのようなものは現実世界には存在しません。我々は神ではないからです。シンガーの「理性」はただ思考の中にだけ存在しうるものであって*4、現実に存在するとは言えません。

一方、我々人間は世界の一部であり、自然の一部です。ひとりひとりは、この世界で生まれ死んでいく生命の1つに過ぎず、神にはなり得ません。。

この世界に基礎を持たない超越した「理性」を、効果的利他主義者が信じるのはなぜなのか、今すぐここで理解することはできません。しかし、言えることは、彼らの言う「理性」は、それを口にする者によっていかようにも変更できるということです。

本当は、盲目の人の生命を目の見える人の生命より劣位に見ることも、等価にみることも、優位に見ることも、彼らの「理性」によっては可能なのです。それを盲目の人の生命・人生が劣位にあると決めているのは、この「理性」を使う人間の恣意に過ぎません。この判断の根拠は現実世界の中にはなく、例えるなら、誰かの夢の中に自分勝手に書かれた物語のようなもの、夢の中にある万能の呪文のようなものによって決められているのです。

繰り返しますが、この呪文は、病気を抱える人や障害を持つ人の人生の価値を低いと断じることも、重度の知的障害者を動物よりも劣ると断じることができる恐るべきものです。

理性と共感

効果的利他主義に共感は不要

効果的利他主義者は、この万能の呪文である「理性」を基礎にしないと効果的に利他的な行為を行うことは出来ないと主張しています。

例えば、シンガーは次に挙げるような一連の記述において、理性こそが倫理的行為の基礎となるべきであり、共感のような情緒的反応は従たる役割しか与えるべきではないと主張しています。

効果的な利他主義は、哲学と心理学の古典的な問いに新しい光を当てています。人間は自分たちの基本的欲求と情緒的な反応に従って行動する存在であって、合理的な判断以前にすでにどうするかを決めていて、その行動を正当化するために理性を使っているだけなのでしょうか? それとも、理性は私たちの生き方を決める上で、決定的な役割を果たすのでしょうか? 自分の利益や愛する人の利益を超えて、赤の他人や未来の世代や動物の利益を考える人は、なにに動かされているのでしょう。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] はじめに、location115

このような問いに対してのシンガーの答えは次のようなものです。

効果的な利他主義者には、顔の見える人に対して感じるような強い情緒的共感は必要ありません。彼らは、情緒的共感から導かれるものとは反対の結論を導き出す場合もあります。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第7章 愛がすべて? 、location1265

ある倫理的行為に関する研究に関する記述では次のように述べています。

つねに功利主義的な判断をした人たちは、そうでない人より「共感的関心」の得点が低いことがわかりました。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第7章 愛がすべて? 、location1291

そして次のように述べています。

理性は、感情を調節したり、その方向を変えたりすることで、倫理的な行動を促すプロセスに欠かせない役目を果たすことができるのです。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第8章 理性の力 、location1386

これらの記述のそれぞれを独立してみると、慎重に曖昧な表現がされており、シンガーが理性を倫理的行為の唯一の基礎と言っているようには見えません。しかし、シンガーが倫理的行為選択の場面において、理性こそが大切であり、共感は決定的な役割を果たすべきではない、と考えていることは明らかです。例えば次のような記述に明確に表れています。

これは、助ける相手に共感を抱かないということではなく、共感力が効果的な利他主義者とそうでない人を分ける決定的な違いではないということなのです。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第7章 愛がすべて?、location1311

確かに、ある行為の倫理性を計るとき、「共感」のみによればそれは不確かで恣意的なものになる可能性はあるでしょう。しかしながら、上に見てきたように、シンガーの理性も、共感のみに頼る場合以上に、根拠のない不確かで恣意的な結論を導くものです。

自分の子供と他人の子供

では、我々は何を基礎として倫理的行為選択を行えばよいのでしょうか。

次のシンガーの記述を見てみましょう。

効果的な利他主義者を批判する人たちは、ブルックスと同じように、「厳密に知的なレベルで」パキスタンやザンビアの子供の命が自分の子供の命と同じだけ大切だと認めて行動することが、なんだか奇妙で不自然なことのように語ります。ですが、「はじめに」にも書いたように、自分の子供を愛しているからといって、ほかの子供の命に同じ価値があることを理解できない理由にはなりませんし、こうした視点が自分の生き方に影響を与えないことにもなりません。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第8章 理性の力、location1311

ここで、シンガーは、自分の子供を大切だと感じることは人間精神の理性的な働きによるものではなく、愛のような情緒的な働きによるものを認めています。その上で、理性的には自分の子供とパキスタンやザンビアの子供の命に同じ価値を認めることはできると言っています。

一方で、効果的利他主義者は自分の子供を優先してはいけないのか、という問いかけに対し、シンガーは次のように答えています。

親なら誰しも自分の子供を愛していますし、自分の子供も他人の子供も分け隔てなく考えろという方が非現実的かもしれません。また、自分の子供を大切にするなというわけでもありません。(中略)効果的な利他主義者にとって、<いちばんいいこと>をするのは人生の大切な一部を占めるとはいえ、彼らも人の子であって聖人ではありません。二四時間三六五日、なにをするにも社会貢献を第一に考えているわけではないのです。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第1章 効果的利他主義とは?、location223

この素朴な問いかけに対するシンガーの答えは、聖人でない限り、自分の子供を他人の子供よりも優先しないとすることは不可能であるというものです。

シンガーは、共感や愛よりも理性を優先して、自分の子供と他の子供の命が同じ価値を持つことを認めることはできると言っていますが、一方で、実際の行為選択においては、聖人でない限り、自分の子供を他の子供に優先させてしまうことは当然だと認めています*5

これはどういうことかというと、シンガーの「理性」による行為選択は、「聖人」でない限り貫徹できないものだということです。シンガー自身が、その「理性」はいわば「神」の理性であり、人間が一貫して行為選択基準にすることはできないことを吐露しているのです。

愛や共感の働き方

シンガーは、自分に近しい人間に対する愛や共感に基づく行為は認めるのですが、そこから外れると途端に言わば「神」の理性に従って行為せよと我々に命じます。彼にとっては、ごく近しい人間以外は、愛や共感ではなく、彼の言う「理性」によって判断できる対象になるからです。

ここへきて私は思いました。私にも愛や共感があり、一方でシンガーの言うものとは異なるものの理性があります。シンガーと私は根本的に何が違うのか。それを説明するために下の図を描いてみました。

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かなり乱暴な図式化ですし、私のあり方が効果的利他主義者以外を代表しているわけでもありませんが、効果的利他主義者の愛や共感の働きを理解はできるのではないかと思います。

シンガーは、ごく近しい人々に対する愛や共感を理性のフィルターを経ずして無前提的に肯定する一方、それ以外の人々に対しては理性によって行為選択をすべきと言っています。図では表現しきれていませんが、シンガーが理性によって行為選択する場面で共感が無意味とまでは言っていませんが、共感には決定的な役割はないと言っています。

それに対して私は、行為選択において共感と理性の役割分担は必ずしも明確な境界があるわけではなく、自分に近しい人々との関係では愛や共感が強く働き、それを中心として例えるなら同心円状に愛や共感の働きが拡がっている、と考えているわけです。自分に近しい人々との関係では理性的判断なしにその人々の価値の重要性を認めることができるけれども、自分からの距離*6が遠ければ、つまり円の外側に行けば行くほど、愛や共感の働きは弱まり理性的な判断が必要となるという考えです。

思うに、シンガーは、ごく親しい人に関することを除けば、自分との近しさと無関係に理性的に倫理的行為の価値を判断すべきであるという主張をしており、そのために愛や共感を排除しなければならないわけです。自分の属するコミュニティーや地域などを基準に判断することを排し、世界を神のように平等に見るべきだという主張です。

しかしシンガーのこの姿勢には矛盾や無理があることは明らかです。

まず、自分の近しい人を優先することを肯定せざるを得ないがために、世界を神のように平等に見ることは人間には不可能である、つまりシンガーの「理性」を人間が体現することは不可能であることを吐露してしまっています。

さらに、より根本的には、前に見たように、シンガーの「理性」の根本命題である、全ての人間の等価性の正しさは理性によっては証明できないという問題もあります。

このような問題を抱えているがために、上に見てきたように人間の価値を単純に数値化し、人生の価値を点数化して比較することによって、健常でない人の人生の価値を健康な人の人生の価値よりも低く見積もるというような、受け入れがたい結論に至るのです。

上の図を見ればわかるように、シンガーも私も、自分に近しい人間に対する愛や共感の働きは認めている点では完全に共通しています。シンガーは、その働きを近しい人たちの中だけに留めるべきとしているのに対して、私はむしろそれを拡げるべきだと考えているわけです。

愛や共感と理性のどちらが信頼に足るのか

この違いは、シンガーが愛や共感を不確かで曖昧なものだと断じているからであり*7、一方で私が、愛や共感こそ確かで信頼できるものだと考えている、ということから生じているように思います。

先に述べたように、私は愛や共感は、どのような人間も有する肉体的基礎から生じるものだと考えています。愛や共感は、根拠なく啓示のように獲得されるものではなく、人間の本能やそれに類似する感覚を基礎に生じており、そのような実際に捉えることのできる物理的基礎を有するからこそ信頼に足るものだと考えているのです。

このような愛や共感は、シンガーの「理性」のように無前提的な「正しさ」を主張しません。必ず、人間の自己保存本能や、それに付随する人間の社会性(群れ)等に基礎を有しています。

言いかえれば、効果的利他主義者の言う「宇宙の視点」に対して、「肉体の視点」と言っても良いかも知れません。私が自分の将来を委ねるとすれば、誰かが恣意によって措定した「理性」よりも、人間の動物としての肉体的基礎による判断に任せたいと思います。

効果的利他主義者は「人」に関心がない

シンガーは効果的利他主義者であるホールデン・カーノフスキーの言葉を紹介しています。

僕らは、効果的な利他主義に燃えてるんだ。自分たちのリソースを最大に活用して、できるだけ多くの人を助けるっていう考え方に興奮してる。もしもほかのチャリティならもっといいことができるのにって感じたりしたら、興味が続かなくなるよ。

ピーター・シンガー 著/関 美和 訳(2015)『あなたが世界のためにできる たったひとつのこと ~〈効果的な利他主義〉のすすめ』[Kindle版] 第8章 理性の力、location1495

この言葉は、「理性」を基礎におく効果的利他主義者の姿勢をよく表していると思います。彼らの関心は彼らが助けようとする「人」に向かっているのではありません。彼らは「人を助けること」そのものに関心があるのです。彼らは助けるべき人の具体的な人生には関心がなく、「たくさんのいいこと」をするために人は数値化されているのです。

しかし、愛や共感をまずは基礎にする私の考えからすれば、関心をよせるべきは「人を助けること」ではなく「人」そのものです。

理性への謙抑的態度と本能的共感

効果的利他主義者の姿勢の背景には、上に見てきたように「理性」に対する万能感があります。

確かに人間の理性は優れたものです。人間はあらゆる仮説と実践の繰り返しによって客観的な真実に近づいていけます。ただし、私たちの得る認識は、日々進化していくものであり、かつて真実と考えられていたものが誤りであることが判明し、より認識が進化して新たな真実に到達する、ということを繰り返しています。その意味では、人間が認識する真実はその時代に制約された相対的な真実でもあります。

我々が自らの行為を判断するために基準とすべき真実は、客観的な真実であると同時に相対的な真実に過ぎません。そういう意味では、人間の生命、人間の苦しみをどう解決すべきかについては、それこそ我々の認識の正しさについての評価は、真摯で謙抑的な態度が必要です。

にもかかわらず、効果的利他主義者が「理性」と称するものに与える無前提的な正しさの評価は、上に見てきたように軽率で深い検証を欠くものと言わざるを得ません。生命を単純に数値として比較する態度や、古い優生思想にも繋がるような病気や障害を抱える人の人生の価値を低く見積もる態度など、人間の生命や苦しみに向き合う態度としては、悪意があるかどうかは別にして杜撰過ぎます。

それは何故なのでしょうか。

彼らの愛や共感は家族やごく親しい者に対してしか向けられません。それ以外は一律に数値化された命や苦しみです。これら数値化されたものに対する彼らの共感はなく、「よいこと」として彼らの前にあるだけです。これらを救うことができれば達成感(あるいは賞賛)を得られ、救えなければ落胆するだけの、ある種のゲームのようなものです。ゲームなら、より大きな数値に賭けた方が楽しいというだけです。

このような言い方は多少言い過ぎかも知れません。効果的利他主義者の中には本当に献身的に慈善活動への支援を行っている人もいるからです。しかし、効果的利他主義者が「人を助けること」に関心はあるものの「人」には関心がないことは確かです。

効果的利他主義者と愛や共感によって行動を起こす人たちとの違いはなんでしょうか。それは、自分自身の生命に対する危機感や人生の苦しみです。

愛や共感によって行動をする人たちは、自らの問題として生命の危機や苦しみと向き合います。それは共感と名付けるにしても、愛と名付けるにしても、自らが感じる痛みと呼ぼうと、人間的な感情です。この感情の源泉は、人が生きていく上で逃れられない自己保存の本能と強く結びついています。自らを危機にさらすもの、今は他人を危機にさらしていていつか自分にも牙をむいてくるかも知れないものへの、防御の反応です。

これら地に足のついた感覚は、効果的利他主義者にいう「理性」と違って、人間の本性からくる共感です。人間は抽象的に数値化できる存在ではなく、自分自身、自分の愛する者、自分と同じ立場に置かれた者、自分と同じ敵からの危険にされされた者といった形で、具体的に共感は拡がっていくのです。

それは思い切って言えば、倫理やモラルですらなく、本能を背景にした反応そのものです。

だからこそ、ある人間にとって他の人間は抽象的一律に同価値と扱えるものではないのです。効果的利他主義者の掲げる「全ての生命は平等の価値を持つ」という一見正しそうに見えるこの命題は、我々が具体的に生きる世界においては、間違っているのです。我々が自分や自分の家族を大切にし、次に自分の同胞を大切にする、といった形で共感の範囲を拡げていくのは、人間の本能、つまり肉体的、物理的基礎を背景にした、より確実なものであり、それからすれば、我々が生命の大切さに序列をつけるのは、間違った行為とは呼べません。

そして私は、このような肉体的・物理基礎を持った愛や共感を基礎に、ある主体が救うべき対象、生命の価値に序列をつけることの方が、シンガーの考える根拠のない「理性」や人間にとって不可能な「宇宙の視点」によって全てを平等と言い切る欺瞞よりも、より世界を良くすると考えます。

もちろん、効果的利他主義者の呼ぶようなものではないにしろ、理性の働きは必要です。本能的反応や情緒的反応だけでは、自らの利益を圧迫する課題や本当の敵を見分けることはできないかも知れません。また、本能の視点から選ぶべき行動を刹那的な情動で選べない可能性もあり、そこには理性による修正も必要です。しかし、それらは我々がごく日常的に行っている「より正しい」行為選択のプロセスと同じです。理性は非常に大切な役割を果たしますが、愛や共感を基礎としなければ何も始まらないのです。

私たちが、愛や共感を感じる範囲は世界の全てではないかも知れません。その範囲がより拡がっていくことが望ましいことも理解できますし、私もそれを願っています。しかし、自分たちが苦しみにさらされ、その苦しみを与える敵が目の前にいる時に、それとの闘い以外に自分たちの力を割く余裕がない場合もあります。

しかし、それを冷酷と呼ぶ必要はありません。倫理的に間違っていると批判される言われもありません。

なぜなら、我々は効果的利他主義者よりも格段に広い範囲に愛や共感を感じ、それに対して効果的利他主義者は、「理性」の名の下にごく一部の例外的な人々を除き、世界のほとんどの人々をただ単に冷酷なゲームの対象、スコアの数値としてしか見ていないのですから*8


次回は、効果的利他主義の呼びかけに対して、私たちはどのように反応すれば良いのかについて論じる予定です。


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トランプ政権との関係はこちら。

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尚、今回の記事で扱った共感と理性に関する問題に触れた記事としては、次のようなものも書いています。

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*1:この考えには、「よいこと」を行うためには、金のあるものは金を出し、金のないものは臓器提供せよ、という倫理的命令を行うことも可能になるのではないか、という問題もあります。字数の関係でこの問題自体を取り上げることはしませんが、他の部分への言及でこのことに対する私の立場はある程度理解して頂けると思います。

*2:それは「人類」という括りでも「生命」という括りでも「知性」という括りでも構いません。

*3:もちろん、個別具体的には、同類であるからこそ警戒し不安を抱くこともあるでしょう。しかしここで論じているのがそのような各個の条件が追加された場面でないことはわかっていただけると思います。

*4:信仰によってはこれは認めがたいでしょうが、ここで宗教の話までは踏み込めません。

*5:ただ、シンガーはその優先の度合いにおいて仕方には自ずと限界があるはずだとも言っています。あまりに子供に贅沢をさせたり多くの遺産を子供だけに残すことには問題があると言います。ただ、それでも自分の子供を他人の子供よりも優先することを、倫理的に間違いだとは言っていないことには変わりありません。

*6:これは地理的な距離だけではありません。

*7:シンガーが愛や共感を感じる範囲はごく狭い、という可能性もありますが、それは証明不可能ですし、その逆である可能性も否定できません。畜産動物の苦痛を減らすことを目指し、菜食主義を実践するシンガーの愛や共感はとても広いのかも知れません。しかし、シンガーは世界の最貧困層への慈善活動には熱心なものの、先進国の貧困層には畜産動物に対するよりもリソースを配分すべきだとは考えていないようです。結局のところシンガーは彼の言う「理性」によって救済対象を選んでいるので、私には永遠に理解できないことなのかも知れません。

*8:これは少し言い過ぎかも知れません。効果的利他主義者を自認する人の全てがそうだとは言えないとは思います。しかし、効果的利他主義が自国の貧困層に対して冷酷であったり、病気や障害を持つ人々の生命の価値を低く見積もる場面では、この考え方がある人間にとっては非常に冷酷に作用することは間違いのない事実です。

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