45 For Trash

しごうするのか、されるのか。

昨日の「共感のない理性は誰の味方か。」の補足+【蛇足】はてなブックマークっていいな。

昨日のエントリー、共感のない理性は誰の味方か。 | 「炎上政治」と“脊髄反射”(シロクマの屑籠)を読んで。 - 45 For Trash について、そこそこのブクマを頂き、いくつかのブコメも頂きました。ありがとうございます。

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Photo credit: James Cridland via Visual Hunt / CC BY

記事の趣旨を理解した上での批判も頂き大変参考になりましたし、一方で十分記事内容を読んで頂いたのかどうか不安に感じるような、私から見ると誤解に基づく批判に感じるものもありました。それでもそういうブコメも含め、そのストレートな批判は私の思考に良い刺激をもらったと感じています。一方で、賛同して下さるブコメも、私の言いたいことを改めて要約して頂けたようなブコメもあって、そこそこ多様な意見に触れることができ、改めてはてなブックマークの良さを感じました。

そもそも私は、この記事の内容が多くの方に支持して頂けるとは予想していませんでした。それは、私がどちらかというと「理性」や「論理」を重視してきた人間であり、一方で今の息苦しさにもがく心理の中で何か突破口のようなものを見つけ出したいという切羽詰まった気持ちで記事を書いていたからです。完璧な自信のもとで書いたものではなかったからこそ、アップして良かったと感じています。

そこで今日は、頂いたブコメを参考にしながら、今現在の自分の考えをもう少し整理することが出来ればと思いエントリーを上げます。批判的なブコメに反論するというより、自分の考えを整理したり敷衍したりするのが目的なので、いちいちのブコメを引用はしません。ただ、十分に整理する自信はありません…。

※やっぱり書いてみたら全然十分整理はできませんでした。整理というよりも昨日の思考の延長みたいになってクッソ長くなっちゃいました。個人ブログなので許してください。興味のある方は時間のあるときにお読み頂ければ幸いです。

共感は万能ではない

共感がまず最初にありその後に理性を使う

まず最初に、私は昨日のエントリーで、共感が万能だと言うつもりはありませんでした。言いたかったのは、共感(あるいは反感)から始めた上で、理性を使うべきだということです。あるいは、共感や反感を持たない理性が本当に存在しうるのか、という疑問でもあります。

昨日は、「共感のない理性は無色」という表現を使いましたが、もう一歩踏み込んで表現すれば、理性や論理が誰かの口から発せられる時、そこにはそれが機能する結果への配慮が含まれているはずであり、あるいはそういう配慮がなくてはならないのではないか、と考えているわけです。

理性的・論理的な表現が、それだけを取り出して机上で見てみれば非の打ち所がないように見えても、実際には実社会においてどういう機能を及ぼすのか、もっと有り体に言えば、自分自身の置かれている立場を離れて抽象的に理性や論理だけを提出することなどできず、誰の味方になりたいのか、誰に寄り添いたいのか、それは常に問われているという事が言いたかったのだと思います。

言い換えれば、何かを発言するときには、常に発言者の主体性が問われるということです。

「共感から始める」ということをもう少し表現するとそういう意味であり、一方で「始める」というからには、その後、理性的・論理的な検証や他者との議論の中で自分の主張を鍛える、誤りを修正するということが必要であることをもちろん認めているのです。ただ、この部分は昨日の記事では十分に伝わり切らなかったかも知れません。それは私が「共感」の大切さを強調したかったからであり、そういう文章の勢いであったからであり、また自分の文章の拙さだったかも知れません。

ただ、昨日の記事の表現には、私には自分の立場を表明しないで、つまり共感も反感もないように振る舞って、理性や論理だけを提出しているように見える行為にウンザリしているという気分が影響していることは確かです。そういう行為が、共感や反感はないかのように振る舞いながらも、結果的にはある結論を導き出すとき、そこには、共感や反感、あるいは無関心や冷酷さが潜んでいる場合があるのではないか、それなのに共感や反感を示さない態度というのは、むしろ、それを示して理性的には穴のある主張をしたり、ひたすら反駁したりする態度よりも性質が悪いのではないか、という想いも反映しています。

理性から共感は生まれるか

これは蛇足ですが、「共感から始める」と強調しながらも、私の中には理性の働きによって共感に至ることもあるとは思っています。

私は人間なら誰しも同じ感情に至ることが出来るとは思っていません。イヤな言い方ですが、人間は誰しも自分の利益*1のために行動しようとするものだと考えています。

だから、単純に言えば、人間は自分の利益につながるものには共感を示し、自分の利益に反するものには反感を示すものだと考えています。しかし、自分の利益がなんなのか、共感を示すべき対象がなんなのかは、そう単純ではない。自分の首を絞めるような意見に喝采を送ることも、自分の利益を代弁している意見に反駁していることもあります。

いわばそういう歪みを正すのには理性や論理的な思考が必要である場合もあります。プリミティブな感情や欲望だけで、自分にとって本当に利益になるものを選ぶのが難しい場面は、現代社会では多々あり、だからこそ、自分を痛めつける政策ばかりやっている政治家に票を入れるなんてことも多々あります*2

そういう意味でも、共感は万能ではなく、また理性から共感が生まれることも認めなければならないと思うのですが、実際問題としてはそういうことが起こるのは稀なように思います*3。これを行うにはそれこそ高い理性や自制心が必要であり、多くの人間が出来ることではないように思います。

共感とファシズム

「上から」「下から」を判別することの難しさ

「共感」を重視することがファシズムにつながる危険性についてもブコメで言及いただきました。私の主張の多くを理解した上で、それでも危惧感を感じるので賛同できない、という趣旨のブコメです。また、中には、私の思考がヘイトスピーチを行う人々の心理に近いのでは、という考えもありました*4

私の中に、「共感」のみを重視することがファシズムに至るのではないかという危惧感がないわけではありません。だからこそ「上から」の「炎上」なのか、「下から」の「炎上」なのか、そこを見極める必要があることに言及したわけです。

ただ、ブコメの中にあった、「上から」「下から」を簡単に判別なんかできないのではないかという懸念については、私自身率直に同意しなければなりません。「上から」焚きつけられる場合、何もないところに火をつけられるのではなく、人々の中に元からある感情、特に怒りに着目して着火されるのが通常であり、途中で着火点を見つけられたとしても、燃え上がれば何が火元であったかなど顧みられることはほとんどありません。

これは恐ろしいことで、遠く歴史を遡る必要もなく、それに近い現象は私たちの身近に溢れています。わかりやすい例で言えば、アメリカのトランプ氏の言動を支持する人々の熱狂や、前大阪市長の橋下氏への高かった支持率など、人々の怒りや苦しみを巧みに歪めて、自らの提示する敵への敵意に転嫁するやり方です。*5

昨日の記事で引用させて頂いたシロクマ先生も、これに近いものを想定されて警鐘を鳴らしておられたのかも知れないとも思います(昨日の記事でも私はそう指摘しましたが)*6

それでも「共感」には「共感」をぶつけなければならないのではないか。

こういった扇情的な動きに対して、理性や論理で対抗すべきだということはよくわかります。わかるというよりも今まで私自身そう思ってきました。

それでもなお、私は共感が(あるいは反感が)大切だと言いたいと思ったのです。

人々の感情を利用してファシズム的に*7物事を進めようとする人々、勢力は、理性や論理をないがしろにし、言わば話など通じない状態を利用しています。いくら理性的に論理的に話を進めたところで、ただ「それにはあたらない」と言えば済み、議論は成り立たない。自分たちの正当性を担保するための「道具としての」論理*8ですらないがしろにされています。言い換えれば、高い論理性*9が要求される政治の場面ですら、そのルールは壊れてしまっている。建前すら通用しない世界です。

それに対抗しうるのは理性や論理だけなのでしょうか。

向こうが「共感」を擬制するなら、こちら側は本当の「共感」を紡いで対抗すべきではないか、そう思ったのです。

抽象的にではなく、具体的に見れば、下からの「炎上政治」などほとんど発生していない。一方で上からの「炎上政治」はいくらでもあるのではないでしょうか。これに理性で対抗することはもちろんです。でも、歪められた(あるいは擬制された)怒りに対抗するなら、本当の怒りで闘う方が強力なのではないでしょうか

相手が人々の感情を煽っているとき、理性だけが対抗力を持つのでしょうか?それに対するのは別の怒りではないのでしょうか?ファシズムが怒りを利用するからといって、正当な怒り*10を共有して闘うことを何故我々は物わかり良く避けなければならないのでしょうか?

私は人間の生身の苦しみや怒りにこそ真実があることを改めて認めなければならないのではないか、そう思ったのです。

でもそれだけでは確かに危うすぎる。それこそ向こう側から巧妙に利用される危険すらある。だから、共感の次には、理性を働かせるべきだと、共有する怒りに言葉を、論理を与え、自分たちを検証しながら進むべきではないか、ということも思っています。。この部分がセットであることの表現がいまひとつ明示的でなかったのは昨日の記事の穴かも知れません。

作られた共感で分断された者を結びつけるもの

私は、理性や論理のまといをかぶってはいるけれど、その実むき出しの攻撃、抑圧にさらされているとき、それを上回る理性や論理が必要であると思っています。やっぱり没理性、没論理ではダメだと思います。

でも、理性が高く、論理が優れていても、それだけでは役に立たない場合があることに強いフラストレーションを感じます。

本当は共感できるような同じ苦しみの中に生きているのに、敵の作った共感の中に溺れ、敵の用意した論理をコピペする人たちもたくさんいるように私には見えます。一見すればこの人たちは完全なる敵ですが、本当にそうなのでしょうか*11

今は敵と味方に分断されている人々の間には、実は共通する怒りや感情があるのではないか。ある主張を論理の世界で考えれば論破したはずなのに何も変わらなかった。でも、この共通する感情をたどって行けば、本当は手を握り合うことは出来るのではないか。私にはそんな想いもあります。

敵と味方の区別は不要なのか

賢い人はどんなことでも議論できます。何かの意見に触れれば、その意見の穴をするどく見つけ批判します。対立するAとBが議論しているとき、Aの穴もBの穴も平等に批判することもできます。

でも、この賢い人はいったいなんのために批判をするのでしょうか。Aの味方でもなくBの味方でもないとしたら、批判の目的はなんでしょう。この賢い人は理性や論理に仕えているのでしょうか。あるいはただのお遊びなのでしょうか。万が一そのつもりでも、結果的にはAかBどちらかの立場に加勢することになるのではないでしょうか。だとすれば、賢い人も誰かの敵であり誰かの味方です。無意識であっても。

共感もなしに理性だけ働かせて、誰かの敵に誰かの味方になるのですか?共感もなしに、敵と味方の区別をするのですか?

こんなことを言うと、敵と味方しか存在しないという二律背反的なものの見方しか出来ないと批判されそうです。でも、そうじゃないと思っているのはあなたが呑気なだけかも知れない、とも思います。向こうから殴ってくる輩は、明確に敵と味方を区別しているのではないでしょうか。殴り方を巧妙に工夫することや、時々味方同士で内ゲバを起こしたりしてわかりにくい、ということはあるでしょうけれど。

敵を見つけ出して叩けばすべて解決するとまで物事を単純化して言うつもりはありませんが、少なくとも本来は味方同士なのに反目しあうことはなんとかしたい。あるいは味方でもない者を味方だと勘違いしてすがるようなことはしたくない。

上にも述べたように、理性や論理を駆使しなければ自分の立っている場所もわからないくらい、こんがらがった世界に私たちは生きているのだとは思います。でも、やっぱり、自分がどこに立っているのか確認できたとき、誰と手を繋ぐべきかを決めることができるのは、「共感」があってこそではないかと思うのです。

理性的に振る舞っても「立場」からは逃れられない

以前、放送法と停波の問題について記事を書きました。

www.shigo45.com

極力冷静に論点整理をするつもりだったけれど、結局自分の立場を表現せずに記事を書き終わることは出来ませんでした

それは私が怒っていたからです。私は多くのメディア自体が腐っていると思っていて*12、どこかのメディアが消えても大きな感慨は持たないのではないかと思うような人間です。でも停波発言には腹が立った。それは、あの発言が、私たちの持っているギリギリの権利*13である表現の自由を踏みにじる姿勢を露わにしたからです。

記事は理性的に書いたつもりですが、そこには怒りがありました。怒りがなければ書きませんでした。単に少しだけ放送法や憲法を知っているから、「書ける」と思って書いたわけではないのです。怒っているのです。

それは私が自由を必要としているからです。自由が必要ない人とは共感できない。いくら同じ土俵で議論しているように見えても、自由を渇望しない人とは永遠に平行線です。

もちろん、オープンスペースに記事をアップしているのだから、あらゆる人が読むことは予想しているし、異論、反論、理屈にならない罵倒だって投げかけられることは想定しているし、そこにみるべき物があり得ることも否定はしていないけれど、私が第一義的に語りかけているのは、私と同じように自由を渇望する人たちです。もっと有り体に言えば「俺は怒っている。一緒に怒ろう!」そう言っているわけです。


ヘイトスピーチと表現の自由、闘う民主主義に関する記事も書きました。

www.shigo45.com

極力理性的に書いたつもりですが。今でもこの記事の内容には自分自身モヤモヤしています。でも、この記事を書いたのは、私の中に、ヘイトスピーチへの激しい怒りと、表現の自由への渇望が同時にあったからです。ヘイトスピーチを根絶してしまいたいという強い欲求と、表現の自由を毀損したくないという想いに引き裂かれる気持ちの中で書いたのです。

だからあの記事も、誰が読んでもいいし、どんなコメントをつけられても構わないけれど、私が第一義的に話しかけているのは、ヘイトスピーチを憎んでいる人、表現の自由を求めている人、あるいはその両方の人です。

ヘイトスピーチをしたいと思っている人や、表現の自由の価値を認めない人に、私は言うべき言葉を持っていません。

誰かの意見に触れたとき、その表現方法や論理の穴を批判するなとは言いません。その批判はきっと有益なものになるでしょう。でも、その意見が表明している主旨を無視して批判だけをするなら、その批判は主旨そのものを否定するものだと私には感じられます。そのつもりがなくても、そう機能するからです。その機能に無頓着なのは、主旨そのものに無頓着であるか、無関心であるか、心の底で否定しているからだと私には思えます。

賢い人なら何でも批判できます。完全無欠な意見は滅多にないからです。でも、突っ込みどころのある意見でも、その主旨や、その背景にある感情に共有すべきものがあるなら、その感情に寄り添う気があるなら、まずそれに言及するでしょう?それをしないのは、意識的であるかどうかは別にして、結果的に冷酷であるか、アンチであるかではないでしょうか。

蛇足:はてなブックマークっていいなあ

ちょっと疲れたので話題を変えちゃいます。

はてな歴3ケ月の私ですが、はてなブログで記事を書いてブックマークをもらったり、自分でブクマしたりしながら、つくづくはてなブックマークって優れたサービスだなあと感じています。古参ユーザーさんからすれば、何を今さら、という感じなのでしょうけど。

上に書いたように、昨日の記事についても、少し多めのブクマを頂いて、「共感できない」「賛同できない」というブコメがついたこと自体がありがたかったです。もちろん賛同してくれるブコメも。自分自身が半信半疑で書いている部分や、迷いを感じながらも止むに止まれず言い切っている部分などに、きっちりツッコミが入ったりすることに、ある種の感動を覚えたと言っても良いぐらいです。


何が良いって、100字制限、1回限りのブックマークコメント。

他で仕事と関係の深いブログを運営しているのですが、そちらは普通のコメント欄を開放していて、それはそれで楽しかったりもするのですが、それとブックマークコメントは大きく異なると感じます。

普通のコメント欄だと、無茶苦茶長いコメントがついたり、会話が際限なく続くところもあったりしますが、ブコメにはそれがない。もちろんコメントする側からすれば舌足らずになることもあるけど、限られた字数、1回限りのコメントなので、一番言いたいことに絞って完結に表現してもらえる気がします。

性質上、自分へのメモのようなコメントもあるし、語りかけてくれるようなコメントもあるけれど、持っている考えをズバリと表現してくれるものも多くて、自分の考えを見直したり、補強したりする材料にもなるのが嬉しい。一見普通のコメント欄の方が自由度が高いように思えるのに、ブコメの一期一会感のせいなのか、長々と会話をしなくてもヒントをもらえること多いように感じます。

まあ、普通のコメント欄だと、返事しなきゃというプレッシャーを感じてしまう*14という部分があって、そういうプレッシャーを感じなくても良いというのも大きいかも知れないですね。


ブクマが集まると同時に記事が多くの人の目に触れる機会も増えるという、大きなオマケ*15までついてきて、何というか、過不足のないサービスだなあとつくづく感じるわけです。


もちろん、反感を買ったり、ただ攻撃されたりする可能性もあるけれど、自分の考えの穴とか、根本的な誤りとかに気づけるような示唆に富むブコメをもらえる可能性というメリットの方がはるかに大きくて、たまにブコメを非表示にしているブログを見ると、個人的にはもったいないなあ、なんて感じます *16。それに、私自身はそこそこ生きてきて自分が多数派に属していると感じたことはあまりないので、批判されることはいつも予想の範囲内だし、攻撃されることもそんなに苦にはなりません *17

タイミングの問題もあるだろうけど、どうでもいい記事はスルーされ、関心を持ってもらえればそれなりにブクマがつくということ自体、私にとってはおもしろい。自分と世間とのズレを感じられるところがいい。もちろん、世間といってもはてなユーザー限定だし、はてなユーザーの傾向というものもあるのでしょうけど。


それにブコメにスターをつけられるのもいい。一つ一つのブコメは一人一票だけど、スターによって世間の傾向も感じ取れます

本当、古参ユーザーさんからすれば、今さら何言ってんだよって話かも知れないけれど、なんというか、このやり方ってのは、スッキリと知性を交わすことや、場合によっては意見を集約していく上で、すごく優れたシステムなんじゃないかと思った次第です。

もっと早く使い始めれば良かったなあ、とまじめに後悔しています。買いかぶり過ぎかも知れませんけどね。でも本当、気に入っています。

最後に

結局のところ、完全な結論のようなものには至らず、かえってグダグダ長く、蛇足まで加えてしまいました。

こうやってブログ記事を書くこと自体に特別な意味があるとも思わないけれど、こんな辺境でも何かを発言するなら、その発言の意味や、発言の方法、誰の何に向けて語りかけるべきなのかを考えてみたい、そういう気持ちは続いています。

次の記事ではちゃっかりアフィってるかも知れませんが。まあ、方針決めずの個人ブログなのでお許しください。


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*1:自らの利益というものを単純に言い表すことはできないし、そこには広い意味も狭い意味もある。「自分」というもの自体も、狭い意味での自分個人ということもあるし、自分を含むグループである場合もある。ここに詳細に書くことはできないが、誰もが本当に自分の利益になること、不利益になることを、きっちり理解できているわけではないということだけ書いておきたい。

*2:ちょっと単純すぎる例ではあるけれど

*3:稀でも起こりうることは起こりうるけれど。

*4:それが皮肉なのか、ストレートにそう感じられたのかはわからない。自分に厳しく考えれば後者という気もする。

*5:もちろんこれらの例示を挙げること自体、私の政治的な立場や見解が反映しており、異論はあると思う。

*6:もちろんこれもまた私の推測ではある。

*7:ファシズムとまで言うことはできないものもあるので「的」と書いた。

*8:政治においては合法性や合憲性も含む。

*9:それが形式論理にすぎないにしても。

*10:ここでいう「正当」さも立場により異なり、自分の立つ立場からの正当さであることは当然である。

*11:何度もしつこいけれど「敵」などと呼ぶのは私の立場がはっきりと反映している。

*12:多くの場合、「左翼メディア」などと言う言葉でメディア批判がされることが多い(というか声がでかいだけだが)が、私個人としてはあんなもののどこが「左翼」だと思っている。余談だが、そもそも「左翼」「右翼」という非科学的な言葉はそれを使う人間によって都合良く意味を変えられる。主体によって意味内容が変わるような言葉など無用どころか有害だと思っている。これについては別エントリーを書きたいと思っているが…。

*13:ギリギリというのは、この自由が失われた途端、世界はがらりと変わってしまうという意味と、この権利の保障を獲得したのも、それを維持していくのも、権力との厳しいせめぎ合いに勝ち続けなければならない状況がずっと続いているという意味である。

*14:私だけかも知れないけれど。

*15:こっちの方がメインの機能だとは思うけれど自分にとってはオマケ。

*16:もちろん、ブコメ非表示にするかどうかも個人の自由ではあるけれど。

*17:もちろん、攻撃されることが大好物なんてことはないですが。批判は真面目にありがたいと思うけれど。

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