PCに触れない日々が続きました。単純に忙しかったということもありますが、一方でブログやはてなブックマークに少し疲れて距離を置いていたということもあります。
このブログなどどうということはありません。たまに真面目な話題も扱いますが、多くはどうということもないことを書き、アドセンスやアフィリンクも貼っているただの雑記ブログです。ブックマークも気になる話題をブクマし、思いついた意見を記録として残していくという作業をしているに過ぎません。
それでも何故か疲れてしまいました。恐らく、他の方のブログを読み、考えさせられ、勝手に歯痒さや無力感に襲われていたのだと思います。それでも、感じたことをやはり少し残しておきたい、そう思って少し記事を書こうと思いました。いくつかあるのですが、今日は自分の疲れを少し自覚化させてくれた記事に言及させて頂こうと思います。
- シロクマ先生の「炎上政治」への憂慮
- 現実の苦しみにとってまず大切なのは「理性」よりも「共感」
- 怒りの共感は「衆愚」なのか
- その「炎上政治」は「上から」なのか「下から」なのか
- 「理性」ではなく「共感」から始める
- 最後に
シロクマ先生の「炎上政治」への憂慮
久しぶりにはてなにアクセスして、目にとまった次の記事。
はてな歴3ケ月の私でも知っているシロクマ先生のブログです。思慮深く、独自の視点での考察を見せて頂けるこのブログに、私も読者登録をしています。そもそもにわか読者の私にはそのコンテクストが把握できていないことも多いし、理解できたとしても同意できない場合もあるけれど、考えさせられることも多いです。
上に挙げた記事でシロクマ先生は、思慮深い声は黙殺される一方で、思慮の足りない声、脊髄反射的な声の方がムーブメントの着火点になり政治に取り上げられるようになっている傾向があるのだとして、この現象に「炎上政治」という名を与えて警鐘を鳴らしておられる、あるいは深い憂慮を示しておられます。
私はシロクマ先生の憂慮は「理性的には」わかる気がします。でも、どうもモヤモヤしてしまいます。それは何故なのだろうと立ち止りました。
まっとうじゃないからこそ、思慮が足りないからこそ、叩く余地があるからこそ、「保育園落ちた日本死ね」はムーブメントになり得た。
あれはそもそも「まっとうじゃない」「思慮が足りない」と観点で評されるべきものだったのでしょうか。あれは、政策提言のように「思慮深さ」や「正しさ」を求められるようなものだったのでしょうか。もっと言えば、あれは「理性」のみによって捉えるべき表現だったのでしょうか。違うと思います。あれはそもそも「まっとう」とか「思慮」とかの言葉で評されることを予定していない表現であり、シロクマ先生もそれは理解した上で、「憂慮」されているのだろうと思います。こういった「思慮深さ」「正しさ」を欠いた表現が「着火点」になるのは望ましくないと。
だが、国会レベルであれ、それより小さなレベルであれ、民主的な決定プロセスは声をあげる者の判断力がそのまま決定の質に直結するわけだから、集めるべきは私達のなかの思慮深い声であるべきであって、私達のなかの脊髄反射的な声であるべきではないはずだ。
でも、本当に望ましくないことなのでしょうか。
現実の苦しみにとってまず大切なのは「理性」よりも「共感」
あの匿名ダイアリーがあれほどのブクマを集め、拡散されていったのは、「理性」によるものではないでしょう。そこに表現された「怒り」に対する「共感」こそが拡散の原動力になったのだと思います。その拡散のプロセス自体にシロクマ先生は恐ろしさを感じておられるのかも知れないけれど、保育園に入れないという問題を喉元に突き付けられている人々からすれば、「共感」が拡がったこと自体に価値があるのであり、問題解決に対して前進があるかどうか自体に切実な関心があるのであって *1、そのプロセスが理性的であったかどうかに関心があるわけではないのではないでしょうか。
もちろん、「着火」後の燃え拡がる過程においては、有象無象がよってたかって好き勝手なことを言い、それが新たな燃料になることもあります。一方で、この「着火」をきっかけとして「まっとう」で「思慮深い」議論をする人たちもいます。その一つ一つを取り上げて評価することは難しいけれど、少なくとも関心を集めていることには違いないし、今現在本当に困っている人からすれば、政治プロセスの俎上にすら上らない事柄が、多くの関心を集めること自体に大きな価値があるのだと言えます。
シロクマ先生の言う「まっとうな声」「思慮を積み重ねた声」はなぜ共感によって拡散しなかったのか。それは私にはわかりませんが、以前からあった「まっとうな声」や「思慮を積み重ねた声」の主は、そうでない声によって同じ問題ににわかに焦点が当たることに不満など感じないでしょう?本当にその問題を憂いているのであれば。むしろ、なぜ同じ問題について「まっとう」で「思慮を積み重ねた」のに拡がりを持たなかったのかを真剣に分析しているはずです。自己批判的に。
一方、先生の言う「まっとうじゃない」「思慮が足りない」声が共感を得られたのは、生々しい怒りを表現していたからであり、品がない表現*2であったからこそであることは、シロクマ先生自身が認められていることです。
着火点になったのは、思慮もクソもない、ツッコミどころや叩きどころ満載の文章だ。
シロクマ先生はだからこそ「憂慮」されているのですが、私は逆にそこに希望を見出します。
怒りの共感は「衆愚」なのか
何かの問題に対して意見を表明し、それに他者の同意を得たいと思うとき、人は自分の意見の根拠を論理的に説明することで他者を説得しようとします。相手の理性に働きかけ、共通ルールであるはずの論理性を基盤に共通の理解を得ようとします。それが一般には議論と呼ばれるものだろうし、明示的であるかどうかは別にして、様々な場所で皆がそういうものだ、そうすべきだと認識していると思います。
でも、それでは埒があかない場合もある。保育士の待遇の問題や、民間保育園の経営者の立場、財源の問題、地方と都会の違いなど、理性的な問題を地道に論じる必要は否定しないけれど、「怒ってるんだ!」「なんとかしろよ!」という声をあげずにはいられない、そういう理性を超えた「感情」こそが「着火点」になる。匿名ダイアリーが「着火点」になったのは、「もう我慢できない」という感情が多くの人の中にあったからでしょう。
また、思慮深く、まっとうに過ごしてきたにもかかわらず、影響力のある発言の場を持たず、現実に屈するしかないまま、ずっと黙っていた人々もいるでしょう?すべての人がいつでもきちんとした意見を表明できるわけでもない。言葉を巧みに操り、論理一貫していて(そう見えるだけかも知れない)、自信満々の人々が発言している中で、自分が発言できると思わない人もいるでしょう。発言しても声が小さ過ぎてすぐにかき消されてしまう。
でも、あの怒りには共感できた。怒りを表現すべきだと感じた。していいんだと感じた。そういう人もいたはずです。それを「衆愚」と呼ぶとすれば、政治は一部の理性の高い人、言葉をうまく操れる人だけがコミットすべきであり、せいぜい投票に行くこと以外は黙っていろ、という極論にも繋がりかねない気がしてしまいます。
「炎上政治」と“脊髄反射” - シロクマの屑籠b.hatena.ne.jp
- [娑婆世界]
- [天狗の仕業]
「燃えたモン勝ち」になっちゃうと、衆愚度が高くなってしまいます。
2016/03/22 10:35
もちろん、シロクマ先生がそういった極論を支持されるとは思っていません。でも、理性的なものでないものが着火点になることをそんなに恐れる理由が今ひとつ私にはよくわからないのです。
その「炎上政治」は「上から」なのか「下から」なのか
正直に言うと、私自身は、ネット上で何かが炎上し、誰かを集団で叩くという雰囲気を好きにはなれません。そこには冷静な議論も存在しにくいし、まともな批判も、ただの罵倒も混ぜこぜになってしまっているように見えて暗い気持ちになります。場合によって、関係者以外に批判される言われはないものが、恐ろしいほどの多数に叩かれまくっている様子を見て、苦々しく思うことも多々あります。
それでも、こと政治に関することは、大いに炎上すべきだと思うことも多いです。そこに理性が欠けても良いとも思います。なぜなら、政治は「生き死に」の問題だからです。労働問題、社会保障、税金、年金その他政治の問題は、ある人にとっては数ある問題のほんの一部に過ぎないかも知れませんが、ある人にとっては明日の生活、生死を分ける話です。そういう場面で、感情をストレートに吐露し、怒りを下品な言葉で表現し、それに共感が集まるという出来事は、本来ならあちこちで自然に起きてもおかしくないはずです。
でも、私たちの社会ではこういうことが滅多に起きません。日々「上品に」議論している人たちはたくさんいるのに。もちろん、テレビや新聞その他の大手メディアは自分たちの問題を真剣に取り上げてくれない。ネットで誰もが情報発信者だと言うけれど、それなりの影響力を持って「上品に」議論している一部の人たちは、議論はしても「怒り」や「苦しみ」に寄り添ってはくれない *3。彼らの発揮する「理性」に「共感」はない。言語化できないけれど、そう感じている人は少なからずいるのではないでしょうか 。
だからこそ、その鬱屈した「怒り」や「苦しみ」に鋭い嗅覚を持って、一部の政治家が「上から」人々の感情に火を着けるような現象はしばしば起こります。いや、「現象」と言うよりも意図的に行われています。そういった政治家の発言は、「まっとう」でも「思慮深い」ものでもなくいわば炎上芸です。それを我々は何度も見てきたのではないでしょうか。大阪でも、国政でも、海の向こうのアメリカでも。そして、今も昔も。
このことによって「炎上政治」は警戒すべきものだ、というのはわかります。シロクマ先生の憂慮はもしかしたらこちらの面に焦点が当てられているのかも知れません。
「炎上政治」的な出来事がちょくちょく起こるなら、ひとつの動員メソッドとして確立してしまうだろう。私達の思慮を束にするためのでなく、私達の脊髄反射を束にするためのメソッドが確立し、何度も繰り返されるとしたら、そのぶん、政治そのものが――いや社会が――脊髄反射的な性格を帯びてしまうのではないか。
でも、既にこの「動員メソッド」は一部の政治家によって具現化されており、それを私たちが否定しようとしても手の届かないところから投下されます。それが現実です。そうであれば、考えるべきこと、いや感じとるべきことは、それがどこから発せられたものなのか、その言葉がどういう立場の人々の感情を表現しているのか、つまりそれは「我々 *4」の言葉として「共感」できるものなのか、ではないでしょうか。
「我々」の言葉をかすめとって、ありもしない「怒り」や敵を見誤らせる「憎悪」を利用する「上から」の炎上は警戒すべきかも知れないけれど、市井の人のストレートな感情の吐露は、同じ立場に置かれた人間にとっては、「共感」し、そのきっかけに必死に食らいついて膨らませるべきものではないでしょうか。大人しくしていたら、共感のない「理性」が目の前で空転するだけでなく、「上からの」着火によってまでも危険にされされているというのであれば、「下から」着火させて燃え上がらせて抵抗することが有効だと考えても間違ってはいないでしょう?
「理性」ではなく「共感」から始める
共通する感情を持っている人たちはいる。でも分断され力強く表現する方法を持たない。今回の件で私はむしろ、そういう分断された人々が「理性」や「論理」ではなく「怒り」「苦しみ」のような感情の共有、「共感」で繋がりうる可能性が少しでもあるのだ、ということを今回の件で感じることができたのでした *5。論理的な誤りや、没理性的な表現を批判するよりも前に「共感」が力を持ち、理性的な人々もまず最初に「共感」を示した上で、冷静に論理や表現の誤りを指摘する。それは、「共感」なしに行われる論理や表現への批判とは根本的に意味が異なるのだということも、改めてよくわかる出来事でした。
そういう意味ではシロクマ先生とは逆の感じ方をしたのだと言えます。こう考えていくと、私が言いたいことは、シロクマ先生のおっしゃっている事が正しいとか間違っているとかいうことではないのかも知れません。理性や思慮を欠いたとしても、まっとうでなくても、表現された感情や怒りには、いや感情や怒りにこそ、大切なものがあると私は考えていて、それは私がこの社会の現状に強い切迫感を感じているからなのだと思います。一方でシロクマ先生はそうでないのかも知れません *6。
理性を働かせ、思慮深くまっとうな議論をすべきなのはわかっている。でも、それが力を持つよりも前に、自分の喉は掻き切られてしまいそうだ。自分の仲間が打ちのめされそうだ。そう感じている人間にとっては、「理性」よりも「共感」の方がよほど価値があるのです。
ーー 自分たち自身の怒りを叫べ!そして共感し燃え上がらせるのだ!自分や自分の仲間を守るために。
そんな風に思っている人は多くないと思うけれど、私にはこんなスローガンこそが意味を持つほどの切迫した状況が、私たちの社会にはあると感じます。
そして私はそういう人間であることを確認し、シロクマ先生はそうではないということを確認した、単にそれだけなのかも知れませんね *7。
最後に
どこに立っているかはそれぞれ違うからこそ、理性を働かせた議論、論理性が意味を持つとも言えます。それはわかっているつもりです。私自身は自己評価としては、特別に理性が低いわけではないだろうけれど、一方で特別高い理性を持っているわけでもないと思っているのですが、それでも理性的であること、論理的であること、あるいはそうあろうとすることは大切なことだと考えてきました。
それでも私はモヤモヤしていました。それはなぜか。
理性が高いこと、論理的に正しいことは評価されるべきだし、大事にされるべきことだとは思います。でも、それそのものは私には無色に見えます。自分がどんな感情を叫ぶのか、自分がどんな感情に寄り添うのか、それが無ければ理性も論理も誰の味方にもならない *8。
そして、「理性」や「論理」は、それを発揮する人の「立場」を抜きには大した意味を持ちえないのに、それを忘れてあたかも同じ世界を見ているように、あたかも「立場」などというものがないかのように会話することの不毛さへの疲れから私のモヤモヤが来ていたのではないかと、この記事を書きながら考えたのでした。
まとまりのないエントリーで申し訳ありません。後日もう少し整理できれば別記事を書くことも考えます。
次にこんな記事を書きました。
*1:今回本当に前進があるかどうかはまだわからない。むしろそうでない可能性の方がまだ高い。
*2:私は品のない人間なのであの程度で品がないとはまったく思わなかった。
*3:もちろん誰も寄り添う義務などない。むしろこういう感情に関心がなかったり、本音では唾棄すべきと思っている人もいるだろうし。
*4:何を「我々」と呼ぶかは難しいが、ここでは単純に、ある問題について同じような苦しみを抱えていたり、苦しみの原因が同じだと感じられるような場合を想定している。
*5:文字通りそれが実現されたとは思ってはいないけれど。
*6:どこまで言っても推測なので申し訳ないとは思うのですが。
*7:あるいはすべては私の誤解であり、まったく的外れである可能性も否定しきれません。そうであるとわかれば追記、訂正、あるいは別記事で書かせて頂こうと思います。
*8:あるいは意図せず誰かの味方、誰かの敵になる場合もある。