先日、アマゾンの僧侶手配サービスに関して、全日本仏教会からアマゾン本社ならびにアマゾン日本法人に中止を求める文書が提出されたというニュースがあった。今日のテレビニュースでも流れていた。今日はこの件について取り急ぎ感想を書こうと思う *1。
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アマゾンの僧侶手配サービスへの仏教界の反応
アマゾンの僧侶手配サービスと言われているものは、正確には株式会社みんれびが2013年5月から開始している「お坊さん便」という僧侶手配サービスが、Amazonマーケットプレイスに出品されていることを指しているようだ。アマゾンへの出品は2015年12月8日から開始されている。
アマゾンへの実際の出品はこちら。
出品者の株式会社みんれびのプレスリリースはこちら。尚、現時点でこのサービスは「葬儀を除く主要な法事・法要での読経」となっている。
僧侶手配サービス『お坊さん便』Amazon.co.jpに出品開始 | 株式会社よりそう
これに対して、全日本仏教会はアマゾンでのこのサービスの販売を停止するようアマゾンに「お願い」をしている。全日本仏教会のニュースリリースはこちら。
http://www.jbf.ne.jp/news/newsrelease/1609.html
全日本仏教会は日本国内における仏教界唯一の連合体であるらしく、その組織率からすると仏教界の声を一定程度反映していると言って良いのだろう。
私ども公益財団法人 全日本仏教会は、日本の伝統ある宗教団体の中でも有力な59宗派・36都道府県仏教会・10各種団体からなる、およそ全国75,000カ寺を擁する唯一の連合体であります。組織 率は全国寺院の9割と言われています。
「Amazon のお坊さん便 僧侶手配サービス」について (販売中止のお願い) - 公益財団法人 全日本仏教会(注)PDFへのリンク
全日本仏教会の主張を要約すると以下のようなものになる。
- お布施は僧侶の宗教行為に対する対価ではない。
- 仏教会は信徒の自発的なお布施によって維持されておりそれが宗教としての本来性である。
- よって、お布施を定額にすることは本来の宗教性を損なう行為であり、中止してほしい。
念のため該当部分を引用しておく。
私どもは、先ずもって、このように僧侶の宗教行為を定額の商品として販売することに大いなる疑問を感じるものであります。およそ世界の宗教事情に鑑みても、宗教行為を商品として販売することを許し ている国はないのではないでしょうか。
そもそも、私どもは「お布施」を定額表示することに一貫して反対してきました。それは、「お布施」は僧侶の宗教行為に対する対価ではないからであり、定額にすることによって「お布施」本来の宗教性を 損なうからであります。同じように「戒名」「法名」も商品ではないのです。
日本の伝統ある仏教界は、お一人おひとりからのご懇念をもって進納された「お布施(懇志金)」によって寺院を維持し、教えを広め、仏法を相続してきました。これが宗教の本来性であり、教団の歴史と伝 統であります。
(中略)
つきましては、貴社におかれましては上記のことをご配慮いただき「Amazon のお坊さん便 僧侶手配サービス」の販売を中止されるよう、お願いするものであります。
「Amazon のお坊さん便 僧侶手配サービス」について (販売中止のお願い) - 公益財団法人 全日本仏教会(注)PDFへのリンク
ニュースへの反応
さて、この件に関する報道がされると、多くの反応は仏教会に厳しいものであった。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160304/k10010431961000.htmlwww3.nhk.or.jp
さて、ブコメの内容を見てみると概ね次のような批判で占められているようだ。
- すでに宗教行為というより商行為の実態となっているのに今更何を言っているのか。
- これに苦情を言う前に過剰請求などの問題に対応すべきではないか。
- 商行為とされて課税されるのを避けたいだけではないか。
- アマゾンではなくみんれびに言うべきことではないか。
- 仏教界内部で話し合うべきことではないか。
ブコメが世論の代表とは言えないが、ネット上で観測する限り、このような反応は多く見られる。
お布施問題については今に始まったことでもなく、かつてイオンのお坊さん紹介サービスがHP上でお布施金額を明示したことに対し、全日本仏教会からの反発を受け、金額の表示を取りやめたという経緯がある。現在は「イオンライフがご紹介させていただくお寺さまで決めていただいた目安」については表示されているが、これについて折り合いがついているのかどうかは確認できなかった。
お布施は「贈与」か「報酬」か
手元にある岩波国語辞典第七版新版によると、お布施とは
僧侶などに金銭や品物をほどこし与えること。また、その金銭・品物。
とある。
また、goo辞書で提供されている三省堂のデジタル大辞典によると、
僧に読経などの謝礼として渡す、金銭や品物。
となっている。
「ほどこし与える」というのと「謝礼として渡す」というのは意味が異なる。前者は法的には「贈与」の性質も持ち全日本仏教会の考えに近く、後者は法的には「請負の報酬」の性質に近く定額サービスに親和性が高い定義と言えるだろう。国語辞典の方はそんなことまで意識はしていないのだろうが。
贈与であれば、通常その金額は贈与者が勝手に決めることであり、受贈者が「これでは少ない」「もっとたくさん」などと言うことはできないはずである。しかし実際にはお布施の請求についてはトラブルは多くあるようである。
法律相談サイトなどにもお布施の金額に関わるトラブルは散見されるようだが、これに関しては、全日本仏教会も認識しているようで、次のように述べている。
しかしながら、その布施の精神をないがしろにするような法外な「お布施」を請求するなどの事実があり、慚愧の念に堪えないところであります。
「Amazon のお坊さん便 僧侶手配サービス」について (販売中止のお願い) - 公益財団法人 全日本仏教会(注)PDFへのリンク
お布施が何かの対価・報酬ではなく、単なる施し・贈与であるとすれば、僧侶・寺側からお布施を「請求」することはそう簡単ではないはずである。この辺のやり方については、僧侶・寺側から明確な請求がある場合もあるようだが、多くの場合檀家同士で相場を確認してお布施をするということで一定額以上のお布施が確保されてきた事実はあるのだろう。しかし、寺檀関係が希薄であったり無かったりするような場合、お布施をする側にとっては不明朗な金銭授受だと感じることは多いのではないかと思われる。
日常的・継続的な寺檀関係があり、寺・僧侶側が各家庭の事情を把握し、また深く関わっていたような時代であれば、「お布施」についても各家庭の事情に合わせた額に概ね落ち着いていたのかも知れないし、金銭的な「お布施」は不要とされた場合もあるかも知れない *2。この点は、全日本仏教会の声明の次の部分が触れているとも言えるだろう。
また、悩み苦しんでいる方々に本当に寄り添えているのか、僧侶としてのあり方を足下から見つめ直し、信頼と安心を回復していかなければなりません。
「Amazon のお坊さん便 僧侶手配サービス」について (販売中止のお願い) - 公益財団法人 全日本仏教会(注)PDFへのリンク
そもそも、全日本仏教会の言うような「宗教としての本来性」を支える「お布施」という考え方によれば、「お布施」は金銭や物品である必要すらなく、何がしかの奉仕をしたり、極論すれば「笑顔」を見せるだけで良いと考えることすらできる。しかし、それがほとんどの場合現実的に通用しないことは誰もが知っている。
そういう意味からしても、かつてのような寺檀関係が崩れ、なおかつ寺・僧侶側も無料で葬儀や法事を行う意思がない状態の下で、全日本仏教会が言うような「お布施」の考え方を維持していくことはもはや不可能なのではないかと思える。
お布施の性質は誰が決めるのか
それでも全日本仏教会は「お布施」は宗教行為に対する対価ではない、と言う。しかし、お布施を払うのは僧侶・寺ではなく、宗教行為を依頼した人たちである。
この人たちが支払う金銭を宗教行為の対価と認識しているのだとしたらどうなのだろう。いや、実際そういう認識を持つ人は増える一方ではないだろうか。それなのに、仏教界は一方的に「お布施」であり対価ではない、と言い張っているだけの状況だと言えなくもない。お金に「お布施」と名前を付けた途端、対価・報酬ではなくなる、というのはいかにもおかしな話だとも言える。
支払う側が「対価」「報酬」だと認識しているなら、それは宗教行為という役務の提供に対する対価・報酬ではないだろうか。「お布施」の性質を決めるのは仏教界ではなく、それを支払う側の認識ではないだろうか。
まとめ
筆者は無神論・無宗教者であるが、宗教と敵対するつもりはない。社会には生きていくために宗教が必要な人もいるだろうし、一部の宗教家が現実の人々の苦しみに寄り添い、社会問題に対して積極的な役割を果たそうとしていることも理解・評価しているつもりだ。
しかし、この「お布施」問題に関しては、もはや一般人*3の感覚と仏教界の感覚の乖離は大き過ぎるように思えてならない。仏教界が「お布施」を対価と認めないのは、課税対象になってしまうことを回避するためだろう、という勘繰りがあるのにも理由がないことではない。
どう考えても、寺檀関係は希薄化する一方であろうし、宗教行為に対するニーズも今後増加しそうな気配はない。多くの人の感覚は、「やらなければならない行事にかかる費用」として「お布施」を見ている。そして一部の方々を除き、多くの人がこのような感覚であろうことは、仏教界の方々自身が良くわかっているはずだ。そんな中で、このような人々の声に耳を傾けず、頑なにその対価性を認めない態度をとり続けるとすれば、この「やらなければならない行事」そのものを見直そうという動きにつながってもおかしくはない。おそらく、一部の寺・僧侶の方々の中にはそのような危機感があり、だからこそ、僧侶派遣サービスに参加したり賛同する僧侶の方々がいるのではないかと思う。
やはり、何がしかの宗教行為があることによって支払う金銭は「対価」であることを認めるべきだと思う。そしてむしろ、寺檀関係から切り離された人々のニーズを満たす方法を積極的に模索することの方が大事なのではないかと思う。何かをしてもらったから払う、というのは「お布施」でないと言うなら、法事・葬儀・戒名などに対して払われるのは「対価」であって「お布施」ではなく、これら行事とは無関係になされる「お布施」のみを「お布施」と呼べばいい。*4
そしてこのような「お布施」をする動機が起こるような実質を獲得すること、まさに「悩み苦しんでいる方々に本当に寄り添う」などの日常的な活動によって、本当の「お布施」によって寺院が維持されていくことを目指すこと、それが求められているのではないだろうか。
*1:殴り書きなので後日加筆修正する可能性がある。また認識違い等があれば訂正する。
*2:あくまでも推測であることをお許しいただきたい。
*3:特に若い人。年配の人の感覚を筆者が理解しているとは言えない。何がしかの統計資料を探せれば追記する。
*4:たとえば墓じまいの際に高額な離檀料を請求されるというトラブルも多くあると聞く。個々人が墓を維持することが難しい状況が増えている今、葬儀や墓に関する費用の透明化、廉価化は必要であろう。でなければ、遺族のおかれる立場もまた経済的格差によって左右されるような社会へと一層進んでいくだろう。参照: 永代使用料を払ったのに無縁仏?少子高齢・多死社会の厳しい現実 | 散骨粉骨代行サービスのINORI(いのり)