「愛」という言葉が氾濫する中、かえってそんな言葉無ければ良いのにと思う時があります。でもそうもいかないので、気持ちを切り替えて、ひっそりとしかし確実にある愛について書こうという気持ちになりました。
僕は君を愛する
誰かが君を愛しても
誰も君を愛さなくても
僕は君を愛する
誰かが君を憎んでも
誰も君を憎まなくても
誰かが君への愛を誓う
僕は誓わない
誰かが僕を罰しても
僕は誓わない
ただ僕は君を愛してる
愛を競い合う人たちの群れ
僕は抗って歩く
肩をぶつけられ
唾を吐きかけられ
ときには無視をされ
それでも僕は愛を抱いている
誰かが愛を声高に叫び
君の喜びに喝采を送るとき
僕は感じている
物音も立てず
息をのんで
君の苦しみを
君の哀しみを
そして君の穢れを
君の涙にまみれる僕は
ただ君を愛している
君に咲く花
君に宿る鳥
君を洗う雨
君に育まれ埋葬されるものたち
僕はそれとともにあり
僕はその一部だ
僕に語る言葉はない
僕は聴く耳ももたない
ただ君を愛している
えっと…まあ、許してください。
詩人ではないので余計な文章を少しだけ付け加えます。ここまで読んだ方がいればですが…。
ここに書いた愛が誰に向けられたものか、一人の人なのか、もっと大きなものなのか、それは読む方の受けとめ方です。私はどちらでも良いのですが。ただ私は、愛は強いられるものではなく、ただそこにあるのだということを書きたかった。
最初は普通に文章を書こうと思ったのですが、最近理屈っぽいことを書くことが多かったので、気分の問題でこのような詩とも言えないような代物になりました。恥ずかしいし、キモいと思われそうで不安なのですが。
時に誰かから「愛すること」を強いられたり、「愛さないこと」を非難されたりすることがあります。その「誰か」がなんなのかも色々と想像して頂きたいと思います。それは人かも知れないし、場所かも知れないし、時代なのかも知れない。ただ、私は、愛は強いるものではなく、愛のないことを非難されるべきでもない。もしそういうことが行われるならばそれは単に「愛」という言葉を弄んでいるだけだ、と思っています。
「愛を強いる人は愛を知らない」
少しだけ愛の中身を書いていますが、それは愛の定義ではありません。言葉は便利ですが、言葉はまやかしにもなり、同じでないものをひとつにまとめてしまう危うさをいつも孕んでいます。特に一見美しい言葉は。私は、愛する人の数だけ、異なる愛があるのだと思っています。
ただ、私を愛してくれる人には、その愛を誓って欲しくはない。愛してくれればそれだけでいい、そう思います。