45 For Trash

しごうするのか、されるのか。

映画『セッション』に見た絶望の果てのドラムプレイ(ネタバレ注意)

映画『セッション』を見ました。

私がこの映画を見たのはまったくの偶然で、出張中のホテルのオンデマンドビデオで見かけたからでした。たぶん「新着」だったのだと思うのですが、パッケージ画像からはドラムが関わる物語であることは一目瞭然。私自身音楽好きなのですが、家族にドラムをやっている者がいるのですぐに関心をそそられました。

映画情報を普段チェックしない私はまったくこの映画を知らなかったのですが、数日後『セッション』が、アカデミー賞で助演男優賞・録音賞・編集賞を受賞し、作品賞・脚色賞にはノミネートされた作品であることを知ったのでした。他にも色々な受賞の情報もあり結構評価が高いことがわかりました。製作は低予算で行われ、監督・脚本の若手デイミアン・チャゼルは一気に評価を手にしたようです。

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Photo credit: cdsessums via Visual Hunt / CC BY-SA

【注】このエントリーの最後の「セッションとは」の項目に少し加筆をしました(2016.2.14)。

万人に受け入れられるはずがない

これらの評価を知った時の私の感想は、そうなの?でした。私自身はこの作品から「感じる」ところは多々ありましたが、同時に万人受けする作品ではないよなあ、という感想を持っていたからです。特に、この映画が一般人にカタルシスを感じさせるようなものではないだろう、というのが私の感想で、そういう意味では一般から評価を受けにくい、ある意味「失敗」作なのではないかとすら思っていたのです。

誤解をして欲しくないのですが、私自身はこの映画が好きですし、音楽を愛している人にこそ見て欲しいという気持ちもあります。しかし、音楽へ接し方は人それぞれであり、恐らく多くの人が考えている音楽とは異なる面にこの映画は焦点を当てているのだと思います。そういう意味では、興業的に成功しそうにない、また、成功するとしてもそれはこの映画への誤解に基づくのではないかと感じました。

そのあたりのことをこれから書こうと思います。

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セッション(字幕版)
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【注意】これ以降は多分に「ネタバレ」を含みます。鑑賞前の方はお読みにならないことをおススメします。

鑑賞後読みに来て頂けると嬉しいです。

ニーマンとフィッチャーの共通性

主人公ニーマンは平凡な学生

主人公ニーマンは、ジャズ・ドラムの世界での成功、最高の音楽家になりたい、という望みを強く抱いています。しかしそれもこういう音楽学校の学生なら当然のことで、他の学生も皆同じように成功を夢見ています。

ニーマンは、母親が出て行った家で、作家としては大成しなかった教師の父親と暮らしています。親子仲は良く、特に父親は息子を理解しているとは言えないものの、強く愛しています。ただ、ニーマンは親族の集まりの中では疎外感や反発心を感じています。また学校でも周囲に認められた存在とは言えず友人もいません。その状態に苛立ちや孤独を感じていながらも、表面上は気にしないふりをしています。そして、この状態から抜け出し、ドラマーとしての成功により、周囲に自分を特別な存在として承認させ、世間にリベンジしたい、という執着を持っています。これもまた、平凡なことです。

そしてなによりも大切なことは、ニーマンはドラマーとして天才というわけでないということです。アメリカ最高の音楽学校に入学できるだけの力はありますが、それ以上の才能に恵まれているかどうかについては、映画の中で触れられていません。私にドラム演奏の良し悪しを評価する能力はありませんが、少なくとも映画の中のニーマンの演奏が特に素晴らしいと感じる場面はありませんでした。聞こえてくる実際の演奏においても、映画の中での描かれ方においてもそうです。彼はもちろん努力はしています。しかし、音楽学校の学生としては当然のことです。

ニーマンのエゴは音楽に向けられたものではない

ニーマンは非常にエゴイスティックな若者です。そのエゴは、音楽を追求することに伴って生じるものとは言えません。

彼は出世したいのです。この映画では彼がしていることはドラムを演奏することですが、他のものでも変わりはありません。競争の激しいビジネスマンでもいいし、学力での競争でも良いかも知れない。とにかく、彼は誰よりも出世して認められたい、そのためにエゴイスティックな言動をします。

例えば、音楽学校のトップ指揮者フィッチャーにスカウトされた際には、成功に近づいたと喜び、周囲に吹聴し(性格上地味な吹聴ですが)、他の学生に対して優越感を感じ始め、端々にそれを表現しはじめます。

彼は、最高の音楽家になるためには恋人の存在が邪魔になるだろうと決めつけ、彼女と別れます。恋人の気持ちに配慮する姿勢はまったくありません。彼にとって大事なことは、自分が音楽の世界で成功することだけです。

ニーマンのこういったエゴイスティックな行動は、「成功したい」「どうやって成功するか」ということから発生しているのであり、どういう音楽を演奏したいか、どう音楽と向き合うかということとは無関係です。彼のやっていることが仮にビジネスであったり、学業であったり、スポーツであったりしても何も変わりません。

こういったニーマンの傾向は、「音楽を愛する」者から見ても理解できないわけではないでしょう。どんな世界にも競争はあり、その競争に勝ち続けていくためにはエゴを剥き出しにするしかない、それは音楽の世界でも同じ側面があるでしょう。それだけに、彼の音楽への姿勢も、欲望も、すべてがエゴから生じているということは、先に述べたようにニーマンが平凡な若者であることを改めて示しているとも言えます。

フィッチャーは何者か

音楽学校のトップバンドを指揮する教師フィッチャーは、偏執的であり、嘘つきであり、暴力的です。そのことは見れば誰でもわかります。デフォルメはされていますが、実際に音楽の世界にはこういった偏った性格を持った人、指導者がいて、指弾されることなく生き続けている現実が一定程度あることも多くの人は知っていることでしょう。現実に存在するモンスターのエッセンスを集めたスーパーモンスターかも知れませんが、かといって現実離れした存在とまでは言えません。

彼のこのモンスター性がどこから発しているのかは、映画の中では詳細に描かれてはいません。ただそれが、彼の音楽への愛や理解と引き換えに付与されたものだと示唆するような描写は一切ありません。彼が時折言葉として発する音楽教育への情熱も、全ては嘘であることがわかります。常軌を逸した指導者にも実は音楽や学生への愛があった、というありがちなキャラクターではなく、フィッチャーは音楽を利用して他者を攻撃する人格破綻者に過ぎません。

彼のバンドへの指導は「キー」や「テンポ」といったある種機械的なものにのみ執拗に向けられます。確かにこれらは大切なものですが、映画の中でフィッチャーが演奏そのものについて発する言葉はこれら以外にはありません。私は敢えて描かれていないのだと思います。

フィッチャーは音楽学校の指揮者としては一定の評価を得ていますが、俗世的な意味では音楽の世界での成功を手にしている人物ではありません。彼自身は演奏家としては大成しませんでした。それが何故なのかは十分明らかではありませんが、一流の演奏家でも、一流の指揮者でもありません。ただ恐怖や策略によって徹底された機械的な譜面の再現をもって、自分の小さな名声のためにバンドの勝敗に腐心しているに過ぎません。

こういった意味で、少なくとも音楽的な意味では、フィッチャーはニーマンの師ではありません。フィッチャーはニーマンに何らの音楽的な教育もしていません。彼はただの悪辣な権力者に過ぎず、ニーマンの欲望や競争心、何よりも成功したいというエゴイスティックな情動を煽り立てるカンフル剤でしかないのです。

ニーマンとフィッチャーの同質性とわずかな違い

呼応するフィッチャーとニーマン

こうやって見てくると、ニーマンとフィッチャーはある種の似た者同士だとも思えてきます。二人は音楽を手段としてしか扱っていません。ニーマンは出世をして世間を見返すための道具として、フィッチャーもただ生きていくための処世的道具としてとして音楽を扱っています。フィッチャーはもしかしたら自分を認めなかった世界に復讐するために音楽を利用しているのかも知れません。

二人は他の人間への配慮を一切持たず、ただひたすらエゴを追求しています。

フィッチャーがあくまでも速いドラミングを要求し、ニーマンはそれに応えるために流血の努力をします。フィッチャーは自分の目的を達成するために無慈悲にライバル学生を投入し、ニーマンはこの学生への苛立ち、嫉妬、怒りを隠そうとはしません。遅刻をしたニーマンに冷酷に応対するフィッチャーに対し、ニーマンは他のバンドメンバー、ましてや観客への配慮など一切なしに、ただ自分が演奏することを主張します。事故に合ったニーマンに破滅を宣告するフィッチャーに対しニーマンは暴力をもって応じます。

このようにニーマンはフィッチャーを抑圧し、屈服させ、翻弄し、破滅させようとします。しかしニーマンは簡単には負けない。それはモンスターであるフィッチャーに呼応するぐらい、ニーマンのエゴも強いからです。

彼らは敵対していますが、そのエゴにおいては鏡映しの存在です。そしてまた、音楽そのものへの愛もないという点で、二人は双生児とも言える存在なのです。

ニーマンの揺らぎ

ただ、ニーマンはフィッチャーほどの完全無欠なエゴモンスターではありません。先ほど二人には音楽への愛がないと書きましたが、ニーマンにはわずかながらその愛を感じさせる部分があります。

尊敬するバディ・リッチのプレイを聴く姿からは、そのグルーブに純粋に憧れを持つ気持ちも感じ取れます。また、学校を退学になったニーマンが見る、子供の頃の自分がドラムを演奏する姿。そこには、野心を持たず、ただドラムを演奏し無邪気に父の称賛を得て喜ぶ無垢な心が描かれています。敗北感の真っ只中で、心の底から楽しかった演奏を想い起こす彼の中に、音楽への愛がまだ息を潜めて生きていることを示唆しています。

再会したフィッチャーの誘いにより再び演奏することの決まったニーマンは、恋人に連絡します。確かに一方的に分かれた恋人に都合よく連絡するニーマンは相変わらずエゴイスティックではありますが、遠慮がちで、困惑する彼女への配慮もしています。退学前の彼とその頃の彼には明らかな違いがあります。以前つき合っていた頃は、彼女に自分の演奏を聞かせる場面はありません。彼女はニーマンの音楽の外にいます。しかし、復帰しようとするニーマンはその演奏を彼女に聞いてもらいたいと思いました。これは音楽への姿勢が変化していることを示しています。それまでのエゴとは違う。彼女に音楽を聴かせたかったのです。

フィッチャーにはないニーマンの人間らしさや音楽への愛は、彼のその若さゆえなのでしょうか。それとも、理解しえなくても愛し続けてくれる父が与えてくれたものなのでしょうか。また、フィッチャーにも同じようなものがかつてはあったのでしょうか。それはわかりません。ただ、似通っている二人に決定的な違いをもたらすのが、この微かではあるものの確かに存在する「愛」なのだと思います。

絶望の果てにあるもの

ニーマンは敗北と同時に音楽への「愛」に気づきます。微かではあるけれど確かな気づきです。そんな彼が偶然再会したフィッチャーの演奏を聴くときの表情は穏やかです。フィッチャーが何であるかを忘れたかのようです。いや、忘れてはいないけれど、もはや同じステージに立つ敵ではないということでしょうか。フィッチャーは相変わらず音楽の世界で醜悪な自分を貫き続けており、ニーマンはそこを離れています。

しかしフィッチャーは想像を超えたサディストであり、抜け目のない復讐者でした。彼は音楽の世界を離れたニーマンを再び大舞台に引っ張り出し、その上で大失態を演じさせることで、完全無欠の勝利を収めようとします。はたしてそれは成功し、ニーマンは絶望のどん底で舞台を去ります。あの事故の時のようにフィッチャーに襲いかかることもなく静かに舞台を降りるのです。それはニーマンがただのエゴモンスターではなくなったからでしょう。

彼は駆け付けた父に抱きしめられます。本当に辛い場面です。しかしニーマンは父の腕から離れ再び舞台に向かいます。

彼は何故再び演奏に向かったのでしょう。それを映画を見る多くの人は「不屈の精神」のように感じ取るのでしょうか。ここまでのストーリーを、鬼のようなフィッチャーにしごかれたニーマンが、その常軌を逸した指導の賜物として高度に成長した演奏技術を武器に、当の師に最後の戦いを挑む物語として見るのならばそうなのでしょう。しかし、今まで見てきたようにこれはそういう物語ではありません。

ニーマンは一度完全に敗北し学校を退学になりました。ただ、そのおかげで失意の中で音楽への愛を微かに思い出しました。舞台に復帰した彼は今までとは違うニーマンとなって演奏するつもりだったのでしょう。しかし、それもモンスターフィッチャーの策略で奪われ、完全な暗闇に放り投げられました。

あれだけの失態を演じれば、もう音楽の世界で成功することは不可能です。正真正銘とどめを刺され、一切の希望を失いました。完全な絶望です。

完全な絶望の中にいながらニーマンは光の当たる舞台に戻ります。ニーマンにはもう何もありません。私は、だからこそニーマンは演奏することにしたのだと思います。成功したい、認められたい、世間を見返したい、そういう想いが完全に断たれてなお残ったもの。それが「演奏したい」という想いだったのです。

そこにはフィッチャーに立ち向かうという気持ちすらない。彼はただ演奏します。ただひたすらに。演奏したいから演奏する、それだけなのです。

その時彼は初めて自分自身の音楽を演奏しました。そして自分の音楽により彼は純化されていきます。心は虚しくなり音楽と一体化します。彼の技術はこれまでの蓄積で向上しているのでしょう。しかしそれは演奏家に技術者・職人的な面があるという音楽のほんの一部に過ぎません。それだけでは到達できないもの、純粋に演奏したい、感じるグルーブを叩きたい、そういうある種プリミティブな欲求こそがそこに描かれているのだと思います。そこに到達した瞬間、彼は輝く音楽の神となります。

音楽には技術が必要ですが、この物語で描かれているのは、超絶技巧に到達する師弟の修行の闘いではありません。徹底的に絶望した人間に唯一残る欲望、純化された音楽への欲求、その神々しさを描いているのだと私は思います。

それはやはり、ニーマンの中にあったドラムへの愛、純粋な音楽の喜びこそがあってのことです。彼が単に成功や出世だけを願い、音楽をただのツールとしか見ていなかったとしたら、彼は父に抱き寄せられながら黙って舞台を去ったことでしょう。しかし、彼は敗北によってかえって音楽への愛を想い起こしました。そして、その想いすらフィッチャーに踏みにじられ完全に絶望したことで、ついに演奏したいという想いだけが残りました。

舞台袖から見守るニーマンの父ジムがの表情が数秒だけ映し出されるシーンがあります。私はこのシーンこそがこの映画を端的に示している象徴的なシーンだと思っています。彼の表情の変化はわずかですが、それは劇的な変化です。愛しい息子を心配していた彼は、次の瞬間まったく違うものを見るのです。ただ無心で演奏するニーマンの姿に自分の理解を超えた恐ろしい怪物を見るのです。畏れにも似た感情を示すその視線の先には、音楽の神がいるのです。

観客はいない

この映画ではほとんど観客は描かれません。それは最初ニーマンとフィッチャーの音楽がエゴイスティックな道具に過ぎないからであり、また、最後の舞台でもニーマンの演奏は観客に向けられたもので観客なしで成立するものだからです。そして演奏が終了すると同時に映画は終わります。観客の喝采もありません。

見ている者にカタルシスを得させたいなら、せめて観客の拍手喝采があっても良いはずです。でもそれは不要なのです。これまでの人生で最高の演奏をしたニーマンが観客に評価されたかどうかは問題ではありません。演奏そのものが結果なのです。

セッションとは

ニーマンは誰とセッションしたのでしょう。「セッション」は邦題に過ぎませんが考えてみます。

学校時代の彼は誰ともセッションしていませんでした。バンドメンバーのことは眼中になくただ自分のエゴでドラムを叩いています。

では最後の演奏ではどうでしょう。これもまたセッションにはなっていません。ニーマンの神々しい演奏にフィッチャーが引き込まれていきますが、ここでもまだニーマンとフィッチャーがセッションしているわけではありません。そして本当に最後のシーンでフィッチャーの表情がアップにされます。フィッチャーは笑ったようにも見えますが、顔の下半分は映っていません。それは恐らくフィッチャーはここにきてもなお何も変わらずフィッチャーだからなのだと思います。それに対してニーマンはどうでしょう。ニーマンは最後にはフィッチャーの指揮に合わせて演奏します。そしてフィッチャーと見つめ合い、微笑みます。フィッチャーとは対照的にニーマンの顔は完全に映し出されています。この瞬間、フィッチャーと和解したのでしょうか。そうではありません。

彼は純粋に音楽を演奏し、その演奏を完成させるためにバンドとセッションをしたのです。彼が欲しいのは音楽であり、また既に音楽以外のものを欲してはいません。音楽が欲しいからこそ、そして純粋に演奏する喜びを感じたからこそ、バンドと合わせる必要があった。つまり、ニーマンに見えたのはフィッチャーではなく、バンドの指揮者なのです。そしてニーマンはバンドに対して微笑みかけたのです。

こうやってみると「セッション」という邦題はこの映画をうまく表しているとは言い難いけれど、ニーマンが最後いわば「音楽に微笑みかけた」瞬間を「セッション」と呼べなくもない、と思います。

しかし、やはり原題である「Whiplash」の方がこの映画を端的に示しているように思います。Whiplashは映画の中で演奏される曲名であり、言葉の意味は「鞭で素早く叩くこと」です。それはフィッチャーが要求しニーマンが身に付けようとしたドラミングのようでもあり、フィッチャーのニーマンへのしごきのようでもあります。そこに深い意味があるかどうか別にして、ニーマンとフィッチャーが追い求めたWhiplashの一つの答えが最後の演奏に表現されているのだと思います。

表現者の到達する稀有な境地

この映画には、音楽の素晴らしさの全てが描かれてはいません。むしろ、根源的なその一部だけを純粋に抽出しているのだと思います。だからこそ、いつも観客は不在であり、演奏に感動する人々の表情も、喝采もありません。ニーマンは人生最高の演奏をしました。でも、それが本当に人々を楽しませたかどうかはわかりません。それはこの映画の守備範囲ではないのです。

絶望の果てに残った純粋な望み。それだけが成せる奇跡の瞬間を描いている映画だと私は感じました。そしてそれは万人受けする内容ではないと思います。しかし一般の見方は異なるのでしょう。だからこその評価なのかも知れませんし、それで構わないと思います。

ただ、音楽に限らず、何かを表現しようとする人間が到達する神(あるいは悪魔)の境地を描いているという点にこそこの映画の素晴らしさがある、というのが私の感想です。


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