45 For Trash

しごうするのか、されるのか。

高市総務相の停波発言と放送法の関係を整理しておく。(追記あり)

高市総務相が放送法4条違反を理由に電波法による停波処分を行う可能性に言及し、安倍首相もこれを肯定したことで、表現の自由と放送法の問題について議論が起きている。

連日堅い話題になってしまうが、ごく簡単にこの問題を整理しておく。 *1

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高市総務相や安倍政権の停波の論理

停波の形式論理

総務相や首相が停波できるとする論理をごく簡単に言うと次のようになる。

放送法4条1項には放送事業者の放送番組の編集にあたり従わなければならない義務を定めている。これに違反した場合は、電波法76条に定める総務大臣の権限として停波を命じることができる。」

下はこの論理の根拠となる条文である。

放送事業者の義務とされるものは放送法4条1項に定められている。

【放送法】
第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
 一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
 二  政治的に公平であること。
 三  報道は事実をまげないですること。
 四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

停波の根拠となる電波法の条文は76条である。

【電波法】
第七十六条 総務大臣は、免許人等がこの法律、放送法若しくはこれらの法律に基づく命令又はこれらに基づく処分に違反したときは、三箇月以内の期間を定めて無線局の運用の停止を命じ、又は期間を定めて運用許容時間、周波数若しくは空中線電力を制限することができる。

放送法4条1項の解釈

さて、字面だけで見れば総務相の論理は当然のものに見えなくもない。また、この発言を支持する立場の人々の理解も「当然」ということである。この件に関しては、根本的な表現の自由への価値の置き方はさておき、形式論理的に「何も間違ったことは言ってないだろ」という人々がいるだろうことは容易に想像できるし、実際多くいるようだ。

だが、事はそう単純ではない。焦点となるのは、放送法4条1項の性質である。

この規定を倫理規定(努力義務)と考えればこれに反する行為があったとしても処分はできないことなる。一方、この条文が行政処分の根拠となるような規範性を持った規定(総務相などはこれを「法規」と呼んでる)と考えれば、これに反する行為があれば行政処分も可能ということになる。

総務相や安倍政権は、放送法4条1項は当然に「法規」であるという解釈に立っている。そのためこれに違反すれば電波法76条に定める停波の処分も当然できるはずだと考えている訳である。

放送法4条1項の性質

放送法4条1項自体の制定過程自体がこの条文のある種の不可解さを決定づけているのだが、ここでは触れない 。 *2

全ての規定が当然に「法規」なわけではない

法律になじみのない人から見れば、法律に書かれている文言には全て法規範性がある(何がしか法的に強制しうるもの)と考えてしまいがちだが、そうではない。

例えば、最高法規である憲法にも「義務」として規定されているが具体的な法的義務を課しているわけではないと一般に解されているものがある。

【憲法】
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

憲法のこの条文は、人権の歴史的意義に鑑み、国民が人権を保持すべきとする精神的な指針を示しており、この条文をもって具体的な義務を国民に課したものではないと解されている。「お前は人権保持のために不断の努力をしているか?」と問われて頷ける人間はそうはいないだろうが、だからといって何か罰が与えられるかも知れないと怯える必要はない。

放送法4条1項についても、放送事業者に対しての倫理規範に過ぎず法規範ではない、とする解釈が通説である。それは何故だろうか。

放送法4条1項と放送法1条・憲法21条との関係

放送法は1条でこの法律制定の目的を規定している。

【放送法】
第一条  この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
 一  放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
 二  放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
 三  放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

ここで特に問題になるのは2号である。

「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。」という文言は「表現の自由を確保すること」がこの法律の目的であることを明示している。表現の自由とは言うまでもなく憲法21条に規定された人権である。

【憲法】
第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

さて、こうやって見ていくと、放送法4条1項と放送法1条は矛盾する規定のようにも思える

4条1項で放送番組の編集、つまり表現内容についての規制を設けることは、放送法1条の目的、ひいては憲法21条の表現の自由に反するように見える。なぜなら、憲法21条は一切の表現の自由を保障しているのであり、表現内容に関わらず表現の自由は保障されることを宣言しているからである *3。表現内容そのものを行政府が問題にし行政処分をすることを認めるとそれは表現の自由を真っ向から否定することになる。

であれば、放送法の形式的な字面と憲法21条を照らし合わせると、放送法は大きな矛盾を抱えていることになる。論理破綻していると言ってもいい。

この矛盾を解消する方法は2つ。

1. 放送法4条1項に法規範性はなく、放送事業者に向けた倫理規定・単なる努力規定とすることで、放送法内部の論理矛盾を解消する。

2. 放送法4条1項に法規範性を認め、放送法4条1項がこの法律の目的を規定した放送法1条と矛盾しひいては憲法21条に違反するのだとする。つまり、放送法4条1項を違憲と考える。

もちろん後者を取る者はほとんどいない。現実に運用されている法律を違憲として廃棄する手続きは容易ではない。矛盾解消のために放送法4条1項を削除するという立法過程を経ることも現実には難しい。

そのため、放送法4条1項は倫理規定であると解することにより矛盾を回避してきたのが通説である。

政権の解釈変更

放送法4条1項を倫理規定と解する立場は、何もリベラル(またはラジカル)な法学者だけがとってきたものではない。実はかつての自民党政権も数十年にわたり倫理規定とする解釈を取っていた

しかしながら、1993年のいわゆる椿事件を契機に政府は解釈を一方的に変更し、放送法4条1項を根拠に放送事業者への行政指導を行うようになった。特にこの姿勢が積極的になっていった2004年以降というのは、現在の安倍晋三首相が自民党幹事長・官房長官・首相を務めた時期、現在の菅義偉官房長官が総務大臣を務めた時期と重なっている。

放送法制定は1950年。少なくともその後40年以上は、放送法4条1項は倫理規定であるとの合意が広くあった。しかしその後なし崩し的な法解釈の変更により放送法4条1項は、いつの間にか「法規」であるということになっている。

一方、法学者の間では相変わらず倫理規定であるとするのが通説である。ただし、放送法4条1項が政権の放送内容への介入根拠になりうるなら、いっそ放送法が違憲であると主張すべきだという考え方も生じてきているようである。 *4

ともあれ、放送法4条1項については行政処分の根拠となる法規範性を認めるのが現在の政府の解釈である。とすれば、論理的には憲法21条との関係で放送法自体が違憲となる。しかしながら、政権にとっては憲法21条の表現の自由に対してもこれまで一般的に支持されてきた解釈とは異なる理解を見せる可能性は高い。彼らは自分たちの望む憲法改正を実現する前に、先走って自民党憲法草案を適用しようとしているのかも知れない。

【自民党憲法改正草案】
第二十一条
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
-- 日本国憲法改正草案 - 自由民主党(平成24年4月27日(決定))より
リンク: 日本国憲法改正草案 | 自由民主党 憲法改正推進本部

70年前からずっと望んできたもの

こうやって見てくると、論理的には、放送法4条1項を「法規」と見るなら違憲のそしりは免れないし、一方「倫理規定」と見るなら行政処分の根拠とはできない、という単純な問題である。

しかし、「違憲だから処分はできないぞ」と言ったところで「いやいや合憲ですよ」と強弁され処分されることは大いにありうる。なおかつ、公権的な違憲判断が得られるとすれば問題が司法に持ち込まれることが必要であり、最高裁判決に至るまでには長期の時間がかかる。一方、「4条は倫理規定なのだから処分できないぞ」と言ったところで「いやいや法規ですよ」と強弁され処分されてしまう。

つまり、どちらにしても政権がやる気になればやる、それだけの話であり、このような実際の政治プロセスに即してみれば、法的な議論をすること自体が虚しい。 *5

ただ、このように法的な議論が通用せず、首相・閣僚の言説が乱暴・稚拙である状況を、今だけの特別な状況だと考えるのは間違いだ。

このような政権の放送への介入の欲求は、最近になって急に生じてきたものではない。彼らや彼らの先人たちが一貫して望んできたものである。自民党政権が放送法4条1項を倫理規定と解さざるを得ない何十年を経ている間も、彼らの欲求は脈々と受け継がれてきた。

例えば、政権が停波の根拠としてる電波法76条1項の文言を再度見てみよう。

【電波法】
第七十六条 総務大臣は、免許人等がこの法律、放送法若しくはこれらの法律に基づく命令又はこれらに基づく処分に違反したときは、三箇月以内の期間を定めて無線局の運用の停止を命じ、又は期間を定めて運用許容時間、周波数若しくは空中線電力を制限することができる。

1950年の電波法制定当時、当初案にはなかった「放送法」という文言が修正としてすべりこんで規定されたのである。電波法はいわば放送設備等に関する規制をしているものであり、放送内容に関する規定ではない。その中に放送法に基づく命令・処分違反に対する行政処分を入れることはかなり不自然である。不自然ではあるがしかし重要な意味があった。この不自然な規定は、70年近くの時を経てついにその力を発揮しようとしている。

つまり、時の政権は放送法・電波法制定当初から、矛盾した形であるにせよ、放送への介入の道具をしっかりと潜ませていたのである。今になって介入を志向する言動、あるいは介入そのものが目立つようになってきたのは、彼らが好機であると判断しているに過ぎず、強弱の差はあれ根本的な欲求は一貫している。彼らを特別視するのは間違いだ。 *6

これはここ数年の特異な動きではない。しっかりとした目論見に基づく積年の成果である。そして当の放送事業者たちは大変呑気な様子である。

もしかしたら、彼らが望む世界はもう目の前にあるかも知れない。それを望まない者は、その世界で普通に呼吸できるだろうか。 *7

※ 尚、表現の自由に関連して下記の記事も後日書いた。

www.shigo45.com

追記(2016.2.11)

ブコメで指摘があった最高裁判決について追記しておく。確かに放送法4条1項に関連する最高裁判例は存在する(平成16年11月25日最高裁判決)。しかし私はこれを放送法4条1項が倫理規定であるとする公権的解釈とは理解していない。そのため本文では敢えて挙げなかった。恐らく異論はあると思うが、以下に私の考えを述べておく。

確かにこの判決で最高裁は1条の目的や3条の放送の自立性を重視する姿勢を示している。さらに、「他からの干渉を排除することによる表現の自由の確保の観点から,放送事業者に対し,自律的に訂正放送等を行うことを国民全体に対する公法上の義務として定めた」としている部分も4条違反の是正は自律的に行うべきものと考えているように思える。

しかし一方で「同項所定の義務違反について罰則が定められていること」として4条1項違反に対する罰則適用の可能性にも言及している。この点で、放送法4条1項の性質について論理的に明確な結論を最高裁が出しているとは言い難いと思う。 *8

また、当判決が訂正放送等を求める私法上の請求権の存否判断のために解釈を行っていることからしても、仮に総務大臣が停波処分をしたような場合に、その処分の適法性や合憲性を判断するための直接的な規範性を有する判例と考えることは、残念ながら難しいと考えている。

【平成16年11月25日最判】
法3条は,上記の表現の自由及び放送の自律性の保障の理念を具体化し,「放送番組は,法律に定める権限に基く場合でなければ,何人からも干渉され,又は規律されることがない」として,放送番組編集の自由を規定している。すなわち,別に法律で定める権限に基づく場合でなければ,他からの放送番組編集への関与は許されないのである。法4条1項も,これらの規定を受けたものであって,上記の放送の自律性の保障の理念を踏まえた上で,上記の真実性の保障の理念を具体化するための規定であると解される。そして,このことに加え,法4条1項自体をみても,放送をした事項が真実でないことが放送事業者に判明したときに訂正放送等を行うことを義務付けているだけであって,訂正放送等に関する裁判所の関与を規定していないこと,同項所定の義務違反について罰則が定められていること等を併せ考えると,同項は,真実でない事項の放送がされた場合において,放送内容の真実性の保障及び他からの干渉を排除することによる表現の自由の確保の観点から,放送事業者に対し,自律的に訂正放送等を行うことを国民全体に対する公法上の義務として定めたものであって,被害者に対して訂正放送等を求める私法上の請求権を付与する趣旨の規定ではないと解するのが相当である。

裁判所 | 裁判例情報:検索結果詳細画面
※下線は筆者


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*1:私は法律の専門家ではないので誤りの合理的な指摘があれば訂正する。

*2:ごく簡単に書くと、このような放送内容を規制するような文言を入れることを時の政権は切望し、表現の自由を重視するGHQはこれを厳しく否定した。そのため政権が望む十分な形では規定を盛り込むことはできなかったが、GHQの目をかいくぐって一定の文言を入れることには成功したというところ。このことが、放送法の中で4条1項が矛盾を来たすことになる原因である。

*3:もちろん、表現の自由も絶対無制限であるわけではなく他の人権との調整上必要最小限度の制約は受ける。但し、表現の自由が民主政の基礎となる重要な人権であることに鑑み、他の人権に比較して優越的地位が認められ、その制限が憲法に照らし許されるかどうかについて、司法においては非常に厳格な審査基準を通過しなければならないとするのが判例・通説によって認められた考えである。

*4:そもそも、法律の文言について、解釈によってその意味を確定していく作業に違和感を感じる人もいるかも知れない。しかしながら、このような作業は法律を制定し運用していく上では不可避のものである。
もちろん、できるだけ疑問の生じないような言葉で規定してくべきだがそれには限界がある。例えば「罪刑法定主義」によって事前に何が犯罪になるかを厳密に規定すべき刑法においても、文言だけでは何が犯罪になるのかを確定しきれない場合がある。そのため文言一つ1つの意味を絞り込む作業が刑法学者や判例によって積み重ねられている。もしこれがなければ、あなたが第2ボタンまで開けたシャツで歩いているだけで逮捕される可能性すらある(極端すぎる例だが)。
法律は法の文言だけで機能しているわけではない。法の内容や対象の境界を明確化する解釈の積み重ねによって法律が法規範として正しく機能していると言える。だからこそ、長年の蓄積、特に立法府と行政府の間で積み重ねられてきたコンセンサスは重いものである。

*5:といっても、議論そのものに価値がないという訳ではない。どのような問題でも論理的一貫性があるかどうかを検証することは、価値判断の一助となるはずである。

*6:自民党政権だけがこういった欲求を持つというわけではない。政権与党になればこのような欲求実現への誘惑はつきまとうことだろう。また、名前が変わろうと出所が同じであればその欲求の強さも似通ったものになるだろう。

*7:放送法の問題は制定過程から立法意思を推測するのに困難を感じる。そのためこの問題を深堀りすると非常に詳細になってしまう。また、免許取消処分についても考察が必要である。だが今回は簡単に整理する趣旨で分量を絞った。

*8:意図して不明確にしていると勘ぐる部分もある。

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